2018年5月28日月曜日

三位一体の主日

この日のミサは勝谷司教の主司式により行われました。


イエスは「放蕩息子のたとえ」に出てくる父親の姿が神の本質的な姿であることを示されています。

この日の勝谷司教のお説教をご紹介します。


『数年前、「いつくしみの聖年」に教皇フランシスコは勅書を出しました。その中で繰り返し言っておられたのは、「神のいつくしみ」です。その姿勢は今も変わらず、ことある毎に同様のメッセージを発信なさっています。しかし、それがカトリック教会の保守的な人たちの反感を買い、いろいろな論争を巻き起こしています。つい先日も、幼少時に性的虐待を受けた人をバチカンに招き、数日間を共にし、教皇様は彼らに対し謝罪と慰めを与えておられました。その中のある一人の男性が自分はLGBT(性的少数者を限定的に指す言葉)であると、同性愛的傾向があると教皇様に言ったところ、教皇様は「神様があなたをそのようにおつくりになったのです。そのありのままのあなたを神様は愛しておられるので、あなたもその自分自身を受け入れ愛しなさい。」とおっしゃいました。それが報道されるやいなや早速論争が沸き起こっているのですが、教皇様はけっして神学論争を仕掛けているのではなくて、こういうような既存の掟やモラリズムというものを先に立てて、それに対して人は(槍を?)打つ。そういう律法主義的な考え方、物の見方を批判しているのです。むしろ、その局地のはざまに陥ってもがき苦しんでいる人間、すべてのどんな人でも、そのような人たちをも神様は愛しておられると。そのような愛のメッセージを伝えようとされておられるのだと思います。

 これはいつの時代もその間の中で私たちはいれるのですが、例えば今日の第二朗読でパウロはこういうふうに言ってます「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」(ローマ8:15)「人を奴隷として恐れに陥れる霊」とは何でしょうか。これも先日、ある研修会に出席したのですが、その時に議論されました。その時に、こういうことを確信をもって強く主張する人がいました。ある意味、正しいです。「人は天国に入ることを目的としてつくられた。私たちの生きる目的は天国に入ることだ。」ちょっと異論はありますが、確かにそのとおりです。天国は死んだ人が行くところか。私はそうとも思わないのですが、それに続く言葉があります。何を言ったかというと、「私たちはこの世において天国に行くために善行を積まなければならない。」と。天に宝を積まなければならないという昔の考えです。 そして、この世で正しく生きることによって天国の門が開かれ、私たちは天国に入れてもらえる。強く確信をもって主張しておられました。それに対して反論して論争になってしまいました。結局、この世において良いことをし徳を積んで、そのご褒美として天国に入れてもらえる。これはパウロの言う奴隷の信仰です。奴隷は主人から命令されたことを忠実に果たすことによって褒められる。しかし、「神の子とする霊を受けた。」このパウロの続きの言葉。「この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(ローマ8:15)神を父よ、お父さんと呼ぶのです。これは奴隷ではない。神の国の相続人です。あの放蕩息子のたとえ話、あの弟が受けたいつくしみと恵みの世界です。それを理解出来ないまま、掟を忠実に守ることによって父からのご褒美をもらおうとしていた兄の態度です。どちらも間違っていると言う意味ではなくて、より相応しく、神の愛やいつくしみの注ぎの中で、愛されている実感に溢れて、回心に導かれていく。それによって神の愛の懐の広さ、豊かさ、大きさを体験するものと、言われたとおりにしないとバチが当たる。へたすると地獄に落とされるかもしれない。考えていたこととはまったく対称にあるのです。私たちは神の子とされる霊を受けている。すなわち無条件に愛され、無条件に神の国を継ぐ者としてすでに受け入れられています。この愛されている実感によって、ふかまりによって、私たちは完全な自分を発見し、より愛に相応しいものとしてなるように自分を変え、正しい生き方をすることが出来るのです。すなわち正しい生き方とか、昔の身に着ける徳目として、愛、誠実、柔和、寛容…とありますが、私たちがそれらの資質を身に着けたら天国に入れるというものではなくて、逆です!私たちが愛されている者という、恵みの世界に生きた時に初めて、結果として私たちはそのような正しい生き方が出来るように変えられていくのです。

 今日は三位一体の主日ですが、三位一体の意味するところは難しい。論理的な解釈はそもそも無理である。だから奥義なのですね。人間の理性では理解しきれないから奥義なのです。 理性で理屈をつけて理解しようとすると、やはり無理があります。大切なことはその三位一体という教義は何を意味しているのか。これの意味していることは、神は孤独な神ではなく、すなわちたった一人でこの国に存在しているのでこの世を創造し、人間に仕えてもらわなくてはならい、そういう神ではありません。むしろ、神ご自身のなかにすでに完全な愛が完成している。愛は一人ではけっして交わりは出来ない、一人では決してありえない。神の中にこの三位の交わりがある。そして、完全な愛の世界がそこにある。孤独な神ではなくて「愛の充満」なわけです。ですから神は愛であると私たちは信じているわけです。その神の愛の一致、三位の神の愛に私たちを与らせてくださるものとして私たちは存在しているのです。私たちは最初から神の愛に包まれて、神の愛に(学んだ?)思想の中で生まれ導かれている。

 この世に地獄があるのかという論争が今でもなされます。私の友人の晴佐久神父は、地獄はないと言ってます。ネットで叩かれていますが。言っていることの真意を神学的に考えると、今までの教えと違うぞとなるのです。真意を私たちが受けとめようとすると、私もどちらかというと、そちらの立場になります。神が愛であるならば、家庭でとらえると良いと思います。家族がどんなに悪いことをしようが、それをもって家族でないと切り捨てることはあり得ないですね。ましてや親であるならば、どんな過ちを子供が犯したとしても、それによって切り捨てることはあり得ません。神も同じように、人がどのような過ちを犯しても、地獄に落とすというのは、愛である(当世?)からあり得ないと私もそれを感じています。 
  では地獄はないのか。そうではないと思います。私たちには自由な意思があります。どんな人間も自分を深く愛してくれる両親に対して、その愛を否定して家を出て行く自由があるのです。どんなに神様が私たちに愛を向けておられても、その愛を完全な意味で拒否し否定することが出来る人間がいるならば、確かにそれが地獄の状態なのです。あらゆる愛の交わりを自分の意思で完全に断ち切ってしまう。そのようなことが出来る人間がいるかどうかは別として、そのような人は地獄の状態にある。これは死んだ後の世界ではなくて、生きている今の段階で、もしそのような生き方をしているならば、その人は地獄の状態にあるといえるわけです。であるならば逆も同じですね。私たちが生きている今、この神の愛を実感し、どんな過ちや愚かさを持っていても  豊かな赦しといつくしみに包まれていると実感している人は、今救われている。そして、先ほど言いましたように、救われた状態、天国にいるわけです。

  そして最初言ったように、私たちはこの愛の交わりの世界に入るように招かれています。愛は一人で達成することが出来ないものです。私たちは孤独な聖人になるように召されているのではなくて、おろかな過ちを犯すような人間だったとしても、互いにそれを受け入れ合い赦し合う、愛の交わりの中で生きるときそれが天国の状態です。その互いの愛の交わりの中で、人間はその恵みによってより良い自分になり、愛するもののために自分を変えていくことが出来る存在になるのです。けっして恐れ、罰を免れるために正しく生きるのではなくて、むしろ恵みに生かされて私たちは変わっていこうとしているわけです。
 このことを教皇様が繰り返し繰り返し言っておられることだと私は思っています。あの放蕩息子の父親の姿、あれが神の本質的な姿だとイエス様はおっしゃっています。どうしてそれを一生懸命、理屈をもって間違っていると言うのか。しかし残念なことに、長いこと教会はそのようなかたちで教会に来るお互いを、裁きや批判の目で見ることが多いわけです。
 まず私たちは、自分に対して神がそれほどまでの憐れみと赦しといつくしみの眼差しを注いでくださっていることを実感するならば、教会も共同体も同じように愛の共同体になるように招かれています。どんなに過ちや愚かさを出す人であったとしても、私たちはそこにまずいつくしみを教会の中に実現することによって、お互いに変わっていくように、変えられていくように招かれていることを、忘れないでいただきたいと思います。』