2018年3月25日日曜日

受難の主日(枝の主日)

聖週間に入りました。


イエスのエルサレム入城を記念し、司教から祝福を受けた会衆が手に棕櫚の枝を持ち聖堂に入堂しました。


イエスのエルサレム入城を多くの人々が賛美し迎えましたが、それは受難の道の始まりでもありました。

福音朗読では、「マルコによる主イエス・キリストの受難」が朗読されました。


この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。


『聖週間に入りました。聖木曜日からの聖なる3日間は、典礼の中心になります。
 (この後、司教様はたばこを控える犠牲を例に取り、愛が必要であることに触れます。)

 犠牲が何であれ、その行為が何に向かっているのか。それによって価値が違ってくることを私は言いたいのです。何のための犠牲か。禁煙であれ、私たちの行う断食であれ、ほかの何かであれ、それが達成出来たとしても、それが愛に開かれていなければ、自分の意思を貫徹したという価値しかありません。何故ならそれは聖書が言うように、その人は「報いを既に受けている。」(マタイ6:2)と言われるものです。教会は断食を私たちに勧めていますが、それを掟として捉えるか、あなたへの罰など強迫観念で行おうとしているのか、そういう思いがあるのではないでしょうか。私たちの自己犠牲は愛に向かっているときに本当に価値のあるものとなります。逆に、人を愛するということは、必ず何らかの自己犠牲を伴います。何故なら、人は誰かを愛するとき、その人を喜ばそう、あるいは幸せにしよう、自分を変えよう。自分を超えていく努力をするからです。さらに、愛する人のために成す苦労は、むしろ自分の喜びともなります。そして、相手との関わりをより深めるために、質的に高めるために、進んで耐え偲ぶことができるのです。教会が私たちに求めている自己犠牲というものは、このようなことです。そこには義務や掟もありません。愛するためにあるいは愛されていることに、相応しく応えようとするためにそうするのです。

 そして、その最も優れた完全な模範を示されたのが、わたしたちの主イエス・キリストです。第2朗読にもあるように、イエスは神でありながら、すなわち全能の父である神と、父という名称を除いてはまったく変わることがない方でありながら、私たちと同じ無力な人間となられました。それは神を私たちに示すためです。旧約の人々は、そしてギリシアの哲学者たちがその言葉をもって、どんなに神を表現しようとしても、表し尽くすことの出来ない、想像を超越した神が、天地を造られ永遠から永遠まで存在されている神が、私たちの目に見えるかたちで、そして手に触れることのできるかたちで、私たちの中に住まわれています。
  そして神は、私たちの言葉と想像をはるかに超えた存在であるのに、私たちにしてみればその栄光と真逆としか思えない極端なかたちで、ご自身を示されました。それが十字架上での姿です。しかし、そこにこそ神の本性が表れているのです。神が愛であるから。それは、ご自分の全存在をまったくおしみなく、すべて私たち一人ひとりに与え尽くそうとされる神の無限の愛こそが、私たちが本当に神の愛ある懐で交わりを保つことが出来るように、神自らが私たちのために自己犠牲してくださったのです。死ぬことがあり得ない神が、私たちと同じ死すべき人となり、私たちと同じように死を味わられたのです。

 信仰生活とは、これほどまでに私たちを愛しておられる神のその愛に、いかにして応えていくかということです。神からの愛の交わりへの呼びかけに具体的な答えを生きること、これは私たちにとっての本当の犠牲であり、信仰者として進むべき道ではないかと思います。』