2017年11月5日日曜日

年間第31主日

イエスは、名誉や権威を守ることに腐心する偽善的な行いや高慢な態度を厳しく戒め、仕える者になるように教えます。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『「諸聖人」そして「死者の日」から11月が始まりました。皆さんはこのミサに入る前に回心の祈りを唱えましたが、この一週間を振り返りながら、皆さんはどんな回心の祈り、心を改める祈りをされたでしょうか?私は、そのようなことを今朝少し思い巡らしてみました。先週の日曜日の聖書のことばは、第一の掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい」まずそれが私たち信仰を生きるものにとって何よりも大切なことである。それに加えて、隣人を愛するというお話でした。私たちの信仰生活を振り返った時に、この一週間のうちにそれが活かされていたでしょうか?そんなことを考えると、私たちはたくさんの悔い改めの出来事を日々の生活の中で思い起こします。こうした思いを神様に清めていただいて今日のミサを捧げることはとても大切なことです。

今日の福音は、イエスと律法学者たちとの論争に続く場面が語られています。
律法学者やファリサイ派の人たちは、自分たちの名誉や権威を守ることを目的として「モーセの座」に立って教えています。そのような彼らの態度は、イエスの目には「偽善者」として映ります。今日読まれた聖書に続く箇所には「偽善者よ、あなたがたはわざわいである」というイエスのことばが続きます。
「モーセの座にすわっている」という言葉は、律法学者とファリサイ派の人々が教義を説き、律法を解釈し、執行する立場に置かれていたことを意味しています。律法学者とはモーセの律法を研究する法律家であり、ファリサイ派は宗教の教師でした。彼らは教義を教える時や聖なる時間を過ごす際には、特別な装束を身に着けていたようです。その一つには、聖句箱とよばれる聖書の中でも大切な言葉が書かれた経札が入れられた小箱を額に着けていました。それは、主と一つであるという姿勢や、心が常に神の律法に向けられていることを表すためのものでした。これらを身に着けて「モーセの座」に立って教えている時には批判を受けることはありませんでした。しかし、イエスは彼らに向って、本当に神に心を向けているのか?と厳しく咎めたのです。経札を偽善的に使用したり、注目されるために箱を大きくしたりと、そのような行いを決して見倣ってはならないと弟子たちや群衆に話しました。見かけは熱心に祈っていても、神様への畏敬や感謝の心がこもっていないなら何もしないのと同じことであると、彼らの行いの伴わない高慢な態度を批判しました。私たち司祭もイエスが批判した彼らと同じような仕事をしています。知らず知らずのうちに高慢な態度を行使しないとも限りませんので、皆さんのお祈りや支えもお願いしたいと思います。

人間の集まる世界には必ず、権威が現れ、指導者も必要になってくるようです。教会にとどまらず、学校にも、職場にも、また家庭にあっても父親や母親の権威と指導が子どもを育てる上では大切なことになります。
自分の思い通りに人を動かすことは精神的な快感ももたらします。権威を持つときには注意が必要です。
神に向う道であればなおのこと、傲慢な人ではなく謙虚な心を持って歩むことが求められるのです。
奉仕をするにしても指導をするにしても、個人的な自分の名誉のために行うことがないようにと、イエスは弟子たちをそして群衆を諭されています。そのうえで教師は一人、先生は一人、キリストの心を心として生きることこそ、私たちキリスト者の大切な心であると教えます。

私たち一人一人に与えられている神からの恵み、力、能力、そうしたものを人々への奉仕のために謙虚に用いることが出来るように、神への栄光に役立つものとなるように、今日改めて、私たち一人一人の思い・行動が、神のみ心に沿っているのかどうかを考えながら、今日のミサで祝福を祈りたいと思います。』