2017年8月27日日曜日

年間第21主日

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」というイエスの問い掛けに「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたペトロに、イエスは「天の国の鍵」を授けました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今朝6時頃、聖堂に入ってみると、壁に架けられている「十字架の道行」第12留のイエスが十字架上で息をひきとられるレリーフに、ちょうど朝日の光が当たっていて、とても良い光景に巡り合うことができました。そして、8時くらいにまた聖堂に入ってみると、光は祭壇の方に移動していて、ステンドガラスからの赤い光も交じって、とても温かくてきれいな光景でした。朝早く教会に来るとそのような恵みにも与れるかと思います。

さて、今日のみ言葉の舞台は先週に続いて、異教の地にイエスと弟子たちが出かけていた時の話です。異教の地であってもイエスの評判は人々の関心を呼び起こしており、イエスのことをまだよく知らない人たちによって、いろいろな噂が起こっていたようです。
それは、会ったことのない人や一度も話を聞いたこともない人が、イエスのことを「洗礼者ヨハネが生き返った」、旧約聖書に出てくるエリヤだとか、立派な予言者の一人ではないのか、などの様々な噂でした。私が驚くのは、みな過去の偉大な人の名前をイエスに結び付けて考えていたということは、やはりイエスはただならぬ人、ちょっと不思議な魅力のある人というように伝えられていたのではないかと思います。
「この人は何者なのか」という問いは、私たちも信仰の道を歩み始めたとき、そのような質問を心の中で問い掛けながらイエスについて学んでいたのではないでしょうか。聖書の中では最初のうち、正気を失った人とか、悪霊に憑かれた人とか、そのように言われていたイエスです。しかし時の流れとともに、今日の聖書の時代に入ってくると、そのような見方をする人は誰もいなくなり、徐々にイエスの真の姿が理解されるようになってきたということです。
しかし、イエスは自分と共に過ごしてきた弟子たちが、自分の本当の姿を理解しているのかと問いかけます。弟子たちは噂話をしていた人々とは違って、いつも直接イエスを見て触れています。何度も何度もその話に耳を傾け、奇跡を目の当たりにしていた弟子たちです。噂話をする人たちと、今一緒に歩んでいる弟子たちの私に対する見方はどうなんだろうか、イエスはそのことを確認するかのように「あなたがたはわたしを何者だと思うのか」と問いかけます。
その中で、弟子を代表するかのようにペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白をしています。この「生ける神の子です」という箇所は、共感福音書の中でもマタイ福音書にだけ書かれています。イエスの真の姿を理解しなければ言えない言葉がペトロによって荘厳に告白されたのです。この時、イエスはすぐに「あなたは幸いである」とペトロを賞賛します。これも他の福音書では書かれていないことです。
当時の人々は、苦しい状況の中で、政治的に救いと解放を望んでいた面もありましたが、ペトロだけは、そのような人々が期待しているようなメシアではなく、人類を罪から解放し永遠のいのちに導く方として「生ける神の子」と告白したのです。
イエスこそ、全ての人を父である神に導く方、道であり真理であり命なのだ。ペトロの信仰告白には、そのような思いも含まれているようです。
ヨハネ福音書には聖書を書く目的が記されいます(20:31)。その内容は、「これらのことをあらわしたのは、イエスが神の子であることを信じさせるためである」とあり、まさにペトロの信仰告白もその目的を叶えたかのような内容になっています。
神の子となる洗礼を受けた私たち、そしてそこから信仰の道を歩み始めています。その出発点にはペトロの信仰告白、信仰宣言があるのです。

マタイの福音では、他の福音に記されていない3つのことが加えられました。
1.すでに信仰によって神の国の幸せに与っているのはあなたである。あなたは幸せである。と、ペトロはイエスから直接、そのような言葉をいただきました。
2.新しい使命のしるしとして、教会を建てる礎となる「ペトロ」という新しい名前を与えられ、さらには天国の鍵を与えられました。
3.イエスが名指しでペトロだけに権能を授与しています。霊的な共同体である教会の最高責任者であることを示唆しました。
このようにして、マタイの福音書だけに特徴のある記述がされているのが今日の福音です。天国の鍵、それは現代の教皇様に与えられているものとして継承されています。その教皇様は、忙しく世界平和のために働かれていることは皆さんもご存知のとおりです。私たちは教皇様のためにも、私たちはもっと深く信頼を持って祈らなければと思います。

このように、今日はペトロの信仰告白を中心にみ言葉を考えてきましたが、ペトロは完璧で模範的な使徒の一人になったということではありませんでした。すぐにはペトロはこの信仰告白をそのまま生きた人ではなかったのです。この信仰告白の直後にもペトロは何度もイエスに注意される出来事を起こしています。サタン呼ばわりされるペトロも聖書には書かれています。どんなに立派であったとしても完全な人にはなれなかったペトロです。

十字架に向って歩むイエスの姿を思う時、私たちも戸惑いを感じながらイエスの姿を追いかけるのではないでしょうか。何故、神の子であり、救い主であり、そして奇跡を起こす力を持っているイエスが、こんなに辛い状況に置かれているのだろうか。こんなに残酷な酷い仕打ちを人々から受けているのだろうか。こんな人に私たちはついていっていいのだろうか。本当に神の子なんだろうか。様々な思い戸惑いが私たちの心の中でも湧き上がってくることはあるのではないでしょうか。
時には、イエスの教えを理解していると宣言しながら、平凡な現実の幸せを手放すことさえできない私たち。そのような弱さはきっとペトロにもあった人間の弱さではないでしょうか。ペトロもそのような弱さを持ちながら、失敗を繰り返しながら、強い信仰の人として宣教していきました。そのような信仰も恵みによって支えられているということではないでしょうか。
道であり、真理であり、命であるイエスの招かれる永遠の道を、私たちも見失うことなく信仰を歩みたいと思います。』