2018年4月29日日曜日

復活節第5主日

今日の福音は、「最後の晩餐」の席でイエスが弟子たちに話された「ぶどうの木」のたとえでした。


後藤神父様のお説教を紹介します。

『良い天気が続き、教会と「聖園こどもの家」の境にある桜も満開を迎えています。おそらく永山公園も桜が満開ではないでしょうか。
4月ももう終わり、5月は聖母マリア様の月になります。マリア様を通して私たちの祈りもまた豊かに花開く季節としたいものです。

皆さんは、今日の福音のみ言葉を聞き終えて、心の中で何が響き、何が残っているでしょうか?今この瞬間、み言葉は心に留まっているでしょうか?
今日のヨハネの福音では「ぶどうの木」のたとえ話が話されました。
なぜイエスは自分が「まことのぶどうの木である」と話したのでしょうか?
イエスは「つながる」という言葉を9回も使って、「つながる」ことの大切さを強調していました。
私たち日本人は、「つながる」という言葉をどのようにイメージするでしょうか。
信仰においてイエスと私たちが「つながる」ということを、どう考え、どう受け止めるべきなのでしょうか?
もし私が皆さんに、「あなたは、主イエスとつながっていますか?」という質問を投げかけたとすると、皆さん一人一人はどんな言葉で答えられるでしょうか?
自分の信仰を振り返りながら、それぞれがいろいろな言葉で説明されると思います。一人一人自分の信仰を確認することができるかもしれません。自分の信仰をみつめる機会になるかもしれません。

今日のみ言葉の少し前で、イエスご自身が「わたしは道そのものである。まことそのものである。そして、命そのものである」と、道・真理・命という言葉を使って自分自身をも表しています。ヨハネがこの福音を書いた時代、そしてヨハネが体験した信仰の交わりの中で、神の民が集まる教会は「神のぶどう畑だ」というイエスの言葉、教えを思い浮かべていたのだと思います。ヨハネはイエスの大事な言葉を思い出して、イエスこそ「まことのぶどうの木」であると力強く主張しました。ヨハネが福音を書いたのは随分と高齢になってからのことでした。そしてイエスが亡くなってから随分と時間が経過していました。
ですから、初代教会の動きをよく見つめてきたヨハネにとって、教会での出来事や人々の信仰心が少しづつ変化している、教会の信者が増え組織化されていく中で出てくる様々な体験もあったようです。
ヨハネの思いを考えると、主イエス・キリストこそ天の御国に通じる霊的な命そのものの方であって、その命につながって、その命に生かされなければ神の御国の永遠の命に生きることはできないのだ、だから、つながっていくことが何よりも大切である、とヨハネはどうしてもそう述べたかったのだと私は考えざるを得ません。

今日聞いたみ言葉の一節の中で、「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」という言葉にも心が留まりました。「清い」という言葉に注目すると、私自身は信仰においてどうであろうか、清さを保っているだろうかと、そのような思いにも至ります。
「神のぶどう畑である教会」は、初代教会の頃、皆そのような思いで助け合い、支え合い、愛し合ってキリストに深く一致して歩んでいきました。一つにつながる教会の姿をそこに表していました。しかし、イエス・キリストが十字架でなくなって、30年、50年と経つうちに、教会の中では取り仕切る人が必要なほど大きな組織になっていきました。取り仕切る人は、時には権力を握る者でもありました。支配していく状況も生まれていきました。清さを保ちながら信仰を生きようとする中でも、私利私欲に流される者も現れてきます。みすぼらしい体験をせざるを得ない人も多くなります。

心の清さは、世の汚れに染まらないことだといいます。私たちの信仰はどうでしょうか。世の汚れに染まっていないでしょうか。清さはイエスの言葉によって与えられるものです。ぶどうの木につながることによって、その清さは保たれるのです。

パウロも、「清いこころで主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛を求めなさい」、と言っています。

今日の「つながっていなさい」というみ言葉は、私たちの信仰や心が本当に、神にそしてイエス・キリストにしっかりと深くつながっているのかどうかを黙想するテーマとして与えられているような気がします。』