2018年1月21日日曜日

年間第3主日

今日の福音は先週と同じように召命がテーマです。
私たちは神の呼びかけにどう応えようとしているでしょうか。



今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『昨日は「大寒」ということで、暦の上では一年で最も寒い季節を迎えていますが、冬至が過ぎて日中の時間は少しづつ長くなって来ており、春も少しづつ近づいて来ているようです。毎年、雪道で滑って転んで怪我をされる方がおりますが、そのようなことがないよう願っております。

さて、先週はヨハネの福音が朗読され、ヨハネがイエスを見て「見よ、神の子羊だ」と弟子たちに示しました。その出会いによってヨハネの弟子たちはイエスとともに過ごし始めるという召し出しの話でした。今日はヨハネの福音からマルコの福音に変わっていますが、内容としては同じ状況のなかでの召し出しの話が語られています。先週のお話では、シモンがイエスからケファという名前をいただいたということが触れられていました。新しい名前をもらうということは、イエスとともに新しい命を歩み始める、神の命をいただくということにも繋がっていきます。私たちも洗礼の時に、「洗礼名」という新しい名前をいただいて、新しく生まれ変わって信仰の道を歩み始めています。
年間の季節が始まり、聖書はヨハネの準備の時が終わって、新しい時代の転換が始まったということを語っています。「新しい時」を迎えたことを、今日のマルコの福音ではイエスの言葉として「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と記されています。新しい時を迎えて、ガリラヤの漁師たちはイエスの弟子となって、宣教の協力者になるのです。これは洗礼者ヨハネの逮捕のすぐ後のことだと聖書は記しています。
召命・召し出しということを私たちは心に留めて今日のみ言葉を味わい、私たちは神の呼びかけに対してどう応えようとしているのか、ということを黙想する一週間に繋げていきたいと考えています。

今日のメッセージは、「時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい」というイエスの福音生活の第一歩の言葉が述べられているように思います。
弟子たちへの招きは、もう皆が待ち望んできた救いの時は終わって、今、時は満ち、まさに決断の時に至った。それは救いを信じて歩み出す時である。そのことを強調しているのではないでしょうか。
神の国とは、パウロのことばを借りると「食べたり飲んだりすることではなく、聖霊によって与えられる正しさ、平和、喜び」ということを表すということが話されます。それは神の支配によって神の愛がゆきわたる国のことです。
福音を信じるとは、キリストによる救い、キリストの無限の愛にもとづく救いの計画の実現を信じることです。福音とは「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」ともいえます。
そして宣教は、まさにキリストによって実現される救いを信じ、キリストを受け入れ、キリストに生きよ、ということです。キリストそのものは宣教そのものでもあるといえると思います。キリストと出会い、キリストを知り深め、それを生きることは私たちの福音を生きるということにつながると思います。

イエスは神の国の実現のために、自分の協力者を求めます。イエスは最初に二人の漁師である兄弟を見て、自分に従うように招かれました。私たち一人一人も神が私たちを見出して招かれた一人一人ではないでしょうか。私たちはその招きに応えて、信仰の道を歩んでいるのではないでしょうか。私たちはその招きにどのように応えているでしょうか。応えようとしているでしょうか。
弟子たちの召命の姿を黙想しながら、私たち一人一人に呼びかけられたその招きを黙想しながら、具体的に生きることを私たちは見出していかなければなりません。
弟子たちの召命の姿には、キリストの宣教の呼びかけに応える弟子たちの決意や選択というものがはっきりと現れています。彼らは網を捨て、父ゼベダイと雇い人たちを船に残してキリストに従ったことは、主の呼びかけに必要ならば全てを捨てて従っていく、根本的な悔い改めの姿を表しています。弟子たちは招かれた時、その選びを受け入れキリストに従う者となりました。
私たち一人一人が従う道は様々であると思います。12人の弟子たちと同じように生きなさいということではないと思います。しかし私たちも心を新たにして、キリストに従うことができるように祈らなければなりません。

皆さんご存知のように、キリストからの召し出しを受けて、この春、神学校に入る青年が一人いるということを発表しております。そしてこの春、札幌教区に叙階の恵みを受ける二人の神学生がいることを皆さんは既に御存知だと思います。一人は箕島神学生が助祭叙階の恵みを受けます。そしてもう一人は、佐久間助祭が司祭の叙階の恵みを受けることになっています。私たちにとっては喜ばしい日が来るということだと思います。
召命による歩みは「悔い改めて福音を信じなさい」ということにも繫がるでしょう。しかし、悔い改めて福音を信じなさいということは、単に自分が何かを反省するということではないはずです。もっと大切なことは、神の国が近づいたという恵みに応える決心を持って歩むということです。
今月の18日から始まっているキリスト教一致週間は今日で4日目ですが、4日目の祈りの中に次のような祈りの言葉がありました。
神の右の手は、わたしたちが行きべき道を指しておられます。その道はあまりにも混乱し、迷いやすい道です。それでも、神の右の手は導いてくださいます。」
召命を生きるということにも繫がる言葉に私は感じました。

どんな試練の中にも神の力が働くことを信じること。そしてこの春、その召し出しに応えて、神学校へ向かう一人の青年がいるということ。既に神学を学んできた二人の神学生が叙階の恵みをいただくということ。彼らの上に神の恵みを祈るとともに、私達自身一人一人の上にも神の恵みに応えて生きる力と希望の召命の恵みを祈りたいと思います。』