2017年10月29日日曜日

年間第30主日「神の愛、人への愛」

今日の福音では、イエスがファリサイ派の人々へ、神の愛、人への愛を教える場面が語られました。

今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『「ロザリオの月」と呼ばれる10月も最後の日曜日を迎えています。神のいつくしみの手の中でこの大自然の景色も秋の色に衣替えをしている真っ最中だと思います。厳しくなる寒さには身体がまだ慣れずに、外へ出るときは着るものにも気を遣っています。
毎朝、目覚めた時に眺めている教会の屋根の上には、この頃は毎日のように枯れ葉が固まって、風に飛ばされないようにしがみついているように見える場所もありますが、皆さんの住まいの周辺は、どんな秋に包まれているでしょうか?

さて、今週の福音は、先週に引き続く箇所が朗読されましたが、皆さんは覚えていますか?「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というお話がありました。イエスの回答でサドカイ派の人々が納税問題の質問で失敗したかのようなお話になっています。今度はファリサイ派の人々も一緒に集まって、またイエスに質問するという、そのような内容の福音でした。
今日の福音の中では、聖書で最も大切な掟は何なのか?という質問がされています。「主を愛しなさい」という愛の掟。私たちはどのように聞いたでしょうか?まさに、そうでなければならないと心に留めたことと思いますが、先週からイエスに対立するグループの名前が次から次に出てきています。思い起こしてみますと、”納税問題””復活について””掟について”と聖書は日曜日ごとに語ってきますけれど、そのような質問をする人々は、ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派、律法学者たち、と様々なグループが登場してきます。そもそも同じユダヤの信仰を持つグループではありますけれど、相容れない主張を持ってるグループのようです。しかし、それぞれ主張を異にしていても、イエスを罠にかけ、陥れるためならば、自分たちの派閥を超えて協力をするというのは、つい先日行われた総選挙の政治の世界と同じようなことが、2000年前の宗教の世界でも行われていたように私は考えてしまいます。
「愛の掟」に関する質問に対してイエスは、第一の掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と答えました。これはユダヤ教の熱心な信仰を生きている人々にとっては、誰もがしっかりと心に留めている聖書のことば、神の教えでもありました。ですから反論の余地のない答えをイエスは話されたということで、誰もがそれは何よりも大切なことと思っていることを聖書からしっかりと根拠を示して語られています。
その答えは、旧約聖書の申命記の中に書かれてあることでした。ユダヤ人なら誰でも知っていた、ましてやファリサイ派の人々ならばなおのこと、細かな掟の管理をしっかりと指導する人々ですから、当然彼らは十分その答えを心に留めていました。ですから、イエスの答えは完璧であり、反論の余地もなかった。当時言われていることは、ユダヤの人々はいつもこの神の言葉を心に留めて、祈りの中に繰り返していたそうです。朝夕2回、信仰告白とともに必ず唱えていた神の言葉でもあったそうです。この神の言葉は、ユダヤ人にとって先祖の民の救いの体験として、エジプトから解放され導かれたことを示す神の言葉でもありました。神はイスラエルの民と約束したことをいつも守り導く、そのような中で神の恵みが自分たちの元にあった。自分たちはその神を大切にしなければならない。神から言われるから守るのではなくて、先祖が神から救っていただいて今自分たちは神の恵みのうちに生きているのだ。今生きているのもその恵みが及んでいるからだ。だから神を愛することは当然です。神の教えは守らなければならない。このような信仰を生きていたのがイスラエルの民、ユダヤの民であったということです。生かされ、導かれているという神への感謝そのものは、愛することという形で彼らの生活があったということだと思います。
「神を愛しなさい。それが第一の掟である」付け加えるならば「隣人をも愛しなさい」それはイエスが、弟子たちをとおして示されるそういう愛でもあり、隣人愛でもあったと思います。神への愛と隣人への愛は別々の掟として捉えられていたと言われますが、イエス・キリストはそれを一つの掟として取り扱って、弟子たちとともに歩まれた方です。ですからイエスは最終的にはこのような言葉で弟子たちに愛について教えています。「私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」自分を愛するように隣人を愛するのも大事なことだけれども、自分を中心として愛するよりも、私が愛したように、私が模範として示したように、あなた方も愛し合いなさい。これが最終的なイエスからのメッセージになっていました。イエス自らが示した愛を見つめること、それが私たちの愛の掟ではないでしょうか。

イエスを見つめ、イエスに触れて過ごした弟子たちにとって、自分の上に注がれている神の愛の自覚、イエスの愛の実感こそ自分たちの愛の実践を担う力となっていたはずです。ですから、私たちも神から愛されているという実感を大切にしなければならないと思います。神から愛されている実感がなければ、自分だけの愛、形だけの愛に留まってしまうことになると思います。自分が愛された、救われた、力をもらった、そのような実感があって、私たちは周りの人にも隣人にもその愛を活かすことが出来るような気がします。
愛は大切であると信じる私たちにとって、私が示す愛、自分が示す愛は、本当に友人や隣人のためになっているのかどうか、少し考えてみなけらばならない時があるようです。時々やり過ぎてしまう、いき過ぎてしまう、愛を押し付けてしまうことも有り得るような気がします。自分はこうした、こうしてあげた、こうすべきだと思ってやっていることが、もしかすると余計なお世話になってしまうこともないわけではない、と思います。ですから、愛は素晴らしいけれども、本当に隣人に受け留めていただき感謝されるためには、自分だけの思いで自分の愛を生きるということには、少し慎重になることも必要かもしれません。時々私たちの人間関係の中で、「親切にして下さるけれどもちょっと負担になる」という人の声も聞くことがあります。大事にされるのはうれしいこと、とても素晴らしいし有り難いことだけれど、ちょっと放っておいて欲しい、そっとしておいて欲しい、という心境のときも人それぞれにあります。よくよく考えながら愛を実践するということはとても大切なことのような気がします。

今私たちが持っている愛の原動力はどこから来ているのでしょうか?皆さんの愛はどこから来ているでしょうか?そのようなことも考えながら、今日私たちが聞いたみことばを黙想しながら、「私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」というイエスのことばをよく心に留めて、また新しい出発にしたいと思います。』