2017年10月15日日曜日

年間第28主日 「婚宴のたとえ」

神は全ての人を招いておられますが、その招きに応えられるかどうかは私たち次第です。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先週のミサ後に朗読の研修会を行いました。私が想像していたよりも大勢の方が参加して学びの時間を持ちました。そのせいではないと思いますが、今日の朗読を聞いていて、とても落ち着いて聞きやすい朗読でした。聞いている皆さんも心の中にまで届くようなみ言葉に耳を傾けられたのではないでしょうか。

先週は久し振りに、教区の神学生養成担当者として神学校の会議で東京に出かけました。神学校までは吉祥寺駅から歩いて40分ほどの距離で昔はよく歩いて行ったものですが、今は無理なので駅からバスで向かいました。そのバスの中でとてもよい”招き”の体験をしましたのでお話します。私はバスに乗って吊革に捕まって立っていたのですが、目の前に制服を着た小学生の女の子が読書をしながら座っていました。ふと目を上げたその女の子は立っている私に気付くとすっと立ち上がって「お座りになりませんか?」と声をかけてくれたのです。人の善意に出会え、私にとっては爽やかな気持ちのよい一日になりました。
今日の聖書のお話ではないですけれど、神様から贈り物をいただいたようなそんな気分の一日となりました。ふと、気付いたのですが、もしかしたら私にとって初めて席を譲られる体験だったのではないのかなと思いました(会衆笑い)。最近、私は高齢者のお話をよくしますが、私自身が高齢者になった証のような体験でもあり、このような親切に出会えそれを素直に受け取れたということは、年を重ねることもいいことなのかなとも思えるようなことでした。

さて、今日はぶどう園を舞台にした話の続きでした。3週間続いたぶどう園の話は今日が最後になります。最初は「二人の息子」の話でした。そして先週は「悪い農夫たち」です。そして今日は三部作の最後のような例え話で「婚宴」のお話でした。
これまで、律法学者や祭司長、長老たちにイエスが話しているように「ことばでは賞賛し、口先では立派なことを言っているが、彼らは神への信頼に欠け、その教えを受け入れようとしない人たちである」という、イエスを拒絶し排除しようとし、自分のことだけを考えているという彼らへの批判があり、厳しい対立が見られるなか、選ばれた神の民の特権が取り上げられ、「神の国は異邦人や罪人を含む新しい民に与えられる」というメッセージがあります。
このたとえ話をとおして、神の民であるユダヤ人の罪と罰が語られます。「天の国」は「婚宴の場」と例えられ、王様は神、王子はイエス・キリストを表す形で、このたとえ話をみることができます。披露宴は天の国であり、神の国です。その神の国に招待されているのが神の民であるユダヤ人でした。
神はそのユダヤ人たちを婚宴に招きます。「食事の用意が出来ました」と、自分の持っている最も善いものを準備して王は招きます。神がそういう食事を用意してくださったのは「主の食卓」、すなわちミサとも重ね合わせることができます。私たちの信仰と救いのうえでミサは大切なものであります。でも私たちはいつもこの救いの場となるミサを最も大切にできているでしょうか?そのような問い掛けも聞こえてくるような気がします。ほとんどの人は主日のミサを大切にして教会に足を運び、ご聖体をいただいて新しい一週間に向っていきます。でも時々そのミサに与れない与らない人たちもいるような気がします。それは自分を優先する場合にそうなってしまうことがあるでしょう。天のことよりも地上のこと、私たちが生きている世界のことを優先せざるを得ない、そのような事情がある人もたくさんいるというのは私たちの現実だと思います。しかし、時にそのことを承知のうえで怠けて、神の招きに応えないという心で足を運ばないこともあるかもしれません。もしそういうことであれば、聖書にあるように、やがて裁きとなって下るということが語られます。
聖書のこの婚宴の話のなかでは、神の民であるはずのユダヤ人が招かれたけれど拒絶したため、神の招きは新しい民へと変わっていきそうです。そして新しい民というのは、信仰を持つ者だけではない、信仰を持っていない人にも招きがある、それは異邦人であるかもしれません。さらに良い人・悪い人に関係なく招かれるというのも聖書で語られます。神の招きは全ての人へ普遍的に拡がっているということが語られています。資格のある・なし、私たちは時々、洗礼を受けていますか?ということを強調して話してしまいますが、洗礼を受けていても受けていなくても神の招きはいつも一人一人に注がれているということを大切にしなければならないと思います。
私たち一人一人は本当にその招きに応えようとしているでしょうか?この地上の生活が優先してしまう時に、自分の思い、自分を捨てることの難しさを誰もが感じていると思います。神様に応えたいけれども残念ながら今日はその時は応えられない、そのような事情も持ち合わせているということもよくあるのではないでしょうか。そうは言っても、時にどんな事情があるにせよ、家族の一人がもし怪我をしたり亡くなったりしたら、そっちに向うことが出来ているはずです。そのような選択は誰でもがするはずなのに残念ながら、教会のミサに対しては、そのような決断が出来ないというのが現実でしょう。神の教えや神からの呼びかけよりも、もしかすると、人から憎まれたり悪口を言われたりすることの方を恐れて、そのような選択をすることもあるかのような気がします。
しかし、自分の立場を優先ばかりしていては、神の招待さえも拒否し続けることになってしまいそうです。「いのちに至る道は狭い」と聖書言われていますが、捨てるべきものを捨てなければ、神の国に入ることは難しいのだということを心に留めておきたいと思います。

さて聖書の話では婚宴が始まって王が入ってきます。するとその王は一人の人に目を向けて「礼服を着けないでここに入ってきたのか?」と言いました。この一言を私たちはどう理解したでしょうか?きっと皆さんはこの言葉はどういう意味なんだろう?私たちはどんな礼服を着けて御ミサに来なければならないか、というところに繋がっていくのではないでしょうか。
私たちは、ふさわしい礼服を着けて、いま、主の食卓に与ろうとしているのでしょうか?聖書の中に「イエス・キリストを着なさい」ということばがあり、洗礼の時には「あなたは新しい人となり、キリストを着るものとなりました」ということばが伝わっています。洗礼の時は「白衣を受ける」ということばが使われていますが、私たちにとって礼服とはどんなものでしょうか?少し思い巡らしてみてください。
少し安心してもらうために、聖書の旧約時代にあった話をします。旧約時代に遡るとこんな習慣があったそうです。祝宴があるときは、王宮で王から与えられる歓迎の着物があったそうです。ですから今日の福音に照らし合わせてそのことを考えてみますと、突然道端で招きを受けたのですから、婚宴にふさわしい服など持っている人はほとんどおらず、礼服を着ることなど当然難しかったはずです。でも昔の習慣では、招かれた人は王宮に入っていく時に衣服が与えられたので、その衣服を着て入ることができるとすれば、それほど心配せずに突然の招待も受けられたはずです。ところが一人だけ礼服を身に着けていない人がいたというのが今日の聖書のお話です。少し理解できたと思います。
それでは、今の私たちにとって考えなければならない礼服とは?
パウロの表現によりますと、「キリストを着ること」ということで礼服について話をされていることがあります。それは「新しい人を着る」ということでもあるというのです。
「礼服」とは、「キリストを信じることであり、神を信頼し信じる心を持つこと」それが神から与えられた礼服を着るということです。これは、信じることなく、救いに与ろうとするものではない、ということを言っていると思います。神を信じることから救いが始まるということです。
ですから、ふさわしい礼服とは、真実の信仰を求め、それを生きようとする心構えといえると思います。神の恵みの席に今連なっている私たちですが、それが形だけではなく、神との真実な交わり出会いとあるよう願い祈ることが求められています。
地上の現実にすべてを奪われている人の心には、神の呼びかけやイエスの呼びかけも響かないと思います。神が今、私たちを招いて下さる。その答えは、私たちの信仰の問題になってくるということ。今日の婚宴のたとえをとおして、私たちが着ける礼服はどうなっているのか、ということをメッセージとして受け止めたいと思います。
そして、私たちが本当に神の国に繋がって、私たちの道が歩めるように今日もまた主の祭壇の前で一致して祈りたいと思います。』

2017年10月9日月曜日

年間第27主日 「ぶどう園と農夫」のたとえ

香部屋の蔦も色付きはじめ、秋を感じるようになりました。


この日の「ぶどう園と農夫」のたとえは、主人からゆだねられ管理をまかされたものを、感謝することなく当然のように感じ、自分の所有物だと思い込む。現代に生きる私たちにもつながる教えです。
やがては、神のみことばを聞いてもそれを行わない者からは、神の国は取り上げられてしまいます。

この日の後藤神父様のお説教は、ブログの最後に掲載しています。


主日ミサの後、聖堂で典礼部主催による「聖書朗読のための勉強会」が行われました。


参加者からは、朗読に際しての細かい所作などについて、たくさんの質問がありました。
奉仕に当たっての心配事が解消され、朗読に専念できる助けになったのではないでしょうか。
ただ読むのではなく「神のみことばを宣べ伝える」ために心がけなければならないことを学びました。それはそれでとても大切なことですが、身構える余り緊張しすぎないようにも気を付けましょう。

後藤神父様のお説教

『今日、皆さんは福音のみ言葉をどのように聴いていたでしょうか。そして、どのように受けとめているでしょうか。もう一つの話しを聞きなさいと呼びかけて今日の福音は始まっています。すでに皆さんはもう一つの話しを聞いたということを前提に、今日の話しは語られています。もう一つの話しは先週聞いているお話になります。先週のお話しを思いおこさなければ、今日のお話しは少し難しいかもしれません。
 今日のみ言葉では、第一朗読のユダヤの預言を彷彿とさせるものがあります。ユダヤの預言もぶどう園のお話しです。もう三周間も日曜日の話しは、ぶどう園の話しが舞台になっています。一生懸命働いても地主、主人だけが良いおもいをしていることに腹をたてている小作人たち。主人の財産を自分たちのものにしようとした、ぶどう園で働く悪い小作人の話しが今日の舞台で語られてています。先週のたとえと違って、今日のお話しはどの福音にも語られているものです。マルコ福音書でも、ルカ福音書でも同じような話しが語られているのです。でも、まったく同じではありません。内容のほとんど同じですが、細かい点でちがった物語になっています。ですから、比較すると興味深い点にぶちあたります。いずれも先週と同じように、イエスが祭司長や民の長老たちに向けて呼びかけ、もう一つの話しを聞きなさいと始まるわけです。もう一つの話しを皆さんは思い出していると思います。二人の息子のお話がありました。仕事を頼まれたお兄さんは「いや。」と答えたのです。同じように仕事を頼まれた弟は「はい。」と答えました。ところが、それぞれ後の行動は返事とは違った行動になっています。どちらが正しいと思うのかが先週のお話しでした。仕事を頼まれたとき「はい。」と答えたが、それをあやふやにして果たさなかった人。「いや。」と答えたが、よくよく考えると申し訳ないと考え、その仕事に忠実に果たそうと努力した人。これが先週の話しでした。
 今日の話しでも、ぶどう園の主人は父である神様を指しています。そして最後に送った主人の息子は、もしかするとイエスを表していると思います。私たちが聖書を通して学んでいる、理解している、父が送ったイエスが十字架に架かって亡くなったという話しに繋がってくる、このぶどう園の話しになります。ぶどうの実りを小作人に要求する権利を持っているのは主人、地主です。その当然の権利を働く人にお願いしているけれども、時代も時代、今の時代もそういう思いを持つ人はたくさんいると思いますが、時代を良く考えながらこの物語を味わう必要があります。
  今日の第一朗読のイザヤの預言は、イスラエルの不信仰を恐れるために物語っているが、話しはぶどうの収穫を拒む農夫たち、その悪意がいっそう強調されて話されています。先ほどほかの福音書でも同じ内容があると話しました。主人から派遣される僕の人数やその回数もそれぞれの福音で少し違ってきます。そういう点では比較すると面白いと思います。マタイ福音書では農夫たちの反抗の凄まじさ、悪意がはっきりと描かれました。最後に主人は自分の息子をぶどう園に送っていますが、ここでもマルコ福音書では、まだ一人の息子を持っていた。彼の最愛の息子である。こういう表現をとっています。それがイエス自身であることを強調した表現がとられた。マタイ福音書の方では表現が違います。彼は自分の子を遣わしたと、こういう表現だけです。最愛の息子を送るということ、自分の息子を遣わすということ。こういうところも違った表現があります。
  いずれにせよ、イエスはこのたとえ話しの結論を人々に質問しています。先週も弟と兄の返事に対して正しいのはどちらかと言う形で最後イエスは質問して、それぞれ考えさせる、そういう教えを展開していた。今日の話しも同じようです。結果的にあなたがたはどう考えるのかということを問いかけます。ぶどう園の主人が帰ってきたら、その農夫たちをどうするだろうか。人々がそれに答えて、その答えをイエスは認めます。答えは正しいのですが、先週と同じように口では立派な答えが出来て居るはずなのに、実行が伴わないことがある。それがきっと私たち一人ひとりが、はっきりとしっかりと考えていかなければならないテーマになっています。口では正しいことを話していても、それをしっかりと行動に移すことが出来ているかどうか、そのことも問われているのだということ。
 特に今日のお話しの背景には、当時の指導者である長老や祭司長たち。彼らは律法にも聖書にも通じていて信仰の指導者です。正しいことを人々に教え、神の教えを大切にしようと指導的な立場からいつも話されている人たちです。でも、話し方、教えは素晴らしいけれども、彼ら自身はどうであったのか。そんなことが私たちに語られます。イエスのこうしたたとえ話を当然、祭司長や長老たちは聞いています。そして、一言でも間違った言い方をしたならば、イエスを何とか窮地に立たせたいと願っているのが祭司長や長老たち。一言でさえもイエスの言葉を聞き逃すまいと構えています。イザヤの預言で言われたように、イスラエルの不信仰があったように、宗教の教えをある意味導いている祭司長や民の長老たちも、神の国は取り上げられてしまう、そういうおこない生き方をしている。
 私たちはどうですか?神の国を願い、私たちも祈りを一生懸命捧げます。私たちの信仰、祈りと行動は一つになっているでしょうか。パウロの第2朗読の言葉も、大切な言葉が私たちに告げられています。共同体の中にある私たちの目指す心が触れられます。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事に付け感謝をこめて祈りと願いを捧げ、求めているものを神にうち明けなさい。それは慈しみ深い、憐れみ深い心があるなら、心をあわせて心を一つにして祈りなさい。自分のことだけではなくて、共同体の一人ひとりを思いやって、互いにこころがけて歩みなさい。そういうことだと思います。

  私たちは今日の聖書のみ言葉から、もう一度どんなことを心に留めるべきでしょうか。イエスは最後に言われます。私から学んだこと受けたこと、私について聞いたこと見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなた方とともにおられる。み言葉である神は、耳を傾ける私たちにも祈りが実を結び、その実りを大切にしなさいということを教えます。
 今日もう一度、聖書のみ言葉を味わい、わたしたちが理解したことを、わたしたちの生活、行動の中でそれが実りを結ぶことが出来るように。そのことを願いながら、今日のミサに入りたいと思います。』

2017年10月4日水曜日

10月2日(月)「守護の天使」の記念ミサ

この日は、カトリック北1条教会の聖堂名となっている「守護の天使」の記念日でした。
午後6時30分から記念ミサが行われました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は守護の天使の記念日。私たちの信仰の中心、私たち共同体の祈りの中心となるこの教会を守り導く保護者として、私たちの教会は「守護の天使」に奉献されました。この守護の天使に奉献されたこの教会は、もうすでに100年を超える教会になっていますが、今日このミサをとおして、私はこの教会の創立にあたった先人たち、そしてこの教会を守り築いてくださった先人たちのためにも祈りを捧げたいと思います。
  私たちは普段どのように守護の天使のことを考えているでしょうか、思い巡らしているでしょうか。それほど守護の天使に心を向けることはないかもしれませんが、今日は特に守護の天使に心を向けて祈りを捧げていきたいと思います。天使は私たちにとって身近な存在であると云えます。しかし、天使は霊的な存在であり、誰もが簡単に見ることができない存在として、私たちのもとに送られています。見えない霊的な存在であるけれども、天使が存在するという根拠は聖書にあります。聖書には創世記の最初から黙示録の最後まで、天使と悪魔に至様々な物語が述べられます。そして今日、私たちは先ほど聴いたマタイの福音のみ言葉の最後にも、小さき者を守り導く天使が天の父のみ顔をいつも仰いでいる。だから、小さき者を軽んじることのないようにと述べています。
 守護の天使を記念するのは私たちの教会ばかりではありません。10月2日は全世界の教会において、典礼の中でこの守護の天使を記念し祝っています。守護の天使を記念すること、それは人間には天から遣わされた守護の天使が、一人ひとり遣わされているのだ。また、いつくしみ深い神が天使を誓わして、私たちが神の国に入れるように守ってくださる。そのことを私たちは思いおこす記念日として、今日の守護の天使の祝日が定めらています。守護の天使の記念は16世紀にすでに教会で祝われていたことが分かっていますが、実際はそれよりずっと以前から様々な教会の中で天使を祝っています。教会の典礼には16世紀過ぎてから組み込まれていますが、現実的には初代教会から天使についての強い信心があったことを物語っています。聖書の中でも触れられます。聖書では使徒言行録の12章で、ヘロデ王がペトロを牢獄に閉じ込め、二本の鎖でつなガがれていだことが語られています。でも、牢獄につながれたペトロは天使によって奇跡的に助けられ、信者たちが集まっていた家に帰って来たと、そういうことが使徒言行録に語られています。

  霊的な存在である天使は私たちの目には見えませんが、天使は常に私たちを見て守っています。私たちの行動、善悪についてさえ常に目撃している。そして、天使は神の前でも証人であると教会は説明します。だとすれば私たちは常に天使と共に守られ、自分の人生を歩んでいる、生きていることだと思います。天使に付き添われ守られていると考えるなら、厳粛な思いも湧き上がってきます。マリア様も天使の表れによってお告げを聞き、御子の懐胎を知り天使の導きによって、常に御子を支え続けた信仰を生き抜かれた。そして、マリア様はこの世の最後には天使と共に天に昇られたと教会は宣言します。私たちの教会において、私たちの信仰において天使は常に身近な存在であることを今日、改めて心に深く留めておきたいと思います。

 先週9月29日は神の栄光を歌うガブリエル、ミカエル、ラファエルという三大天使を祝っていますが、守護の天使はさらに別の役割を担って、私たち自身の心から常に囁いています。私たちの良心の声をとおして守ろうとしています。私たちは導き、天使の囁き、良心の声にいつも従うことができるように、改めて心に誓いたいと思います。
  今日、ミサの始めの集会祈願の祈りを心に留めます。「あなたは天使を遣わして、私たちを守ってくださいます。私たちがいつも天使に守られ、永遠の喜びに入ることができますように。…」ミサの始めに私たちはこの集会祈願の中で祈りました。「守護の天使に向かう祈り」を、以前、説教の中でも触れたことがあります。その祈りの中にある言葉は慰めや力を私たちに注いでいます。文語体の祈りですが、その一節を紹介します。
「わが守護の天使、…
  苦しみに会うとも落胆することなく、
  幸運においても思いあがることなく、
  世俗とその精神に流さるることなく、
  貧しき人をないがしろにすることなく、
  主の御慈しみにより、御身にゆだねられたるわが一生が、
  すべて御身の喜びとなるよう、われを導き、
 われを励まし、われを強め給え。
 われを離れず、わが足のつまずかざらんよう、
  清き御手(おんて)もてわれを支え、われを守り給え。」
とても素晴らしい祈りの言葉が連なっている「守護の天使に向かう祈り」です。あまりこの祈りに接してないかもしれませんが、この祈りも大切にし黙想しながら私たちの信仰を大切にしたいと思います。』

2017年10月1日日曜日

年間第26主日

今日のみことばは、先週に引き続き「ぶどう園」のお話でした。
神のみ旨・神の慈しみを実行することの大切さが語られます。

今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日は10月1日、「ロザリオの月」に入りました。
昼の長さはすでに11時間54分と12時間を切っており、秋から冬へと一歩一歩近づいています。つい先日、利尻富士にも雪が降ったそうですが、今朝のニュースでは大雪連峰の黒岳、旭岳でも初冠雪を記録したということが流れていました。

さて、今日のみ言葉は、よく私たちの日常にも起こっていることではないかと思います。返事はさっと「はい」と応えているけれど、それがうまくできないことが私たちの日常ではよくあることです。そのような内容が今日のお話でした。
先週から引き続いて、「ぶどう園」の話が続いています。先週の話を思い起こしてみてください。一日中、朝早くから働いた人、半日働いた人、遅れてきて一時間働いた人も、皆同じ報酬であった。そのような話を聞いたら、私たちは誰もが不公平ではないかと感じながら、み言葉に耳を傾けていたと思います。しかし、聖書のメッセージはどういう視点で語っているのかということに気付かされると、すなわち、神様はどんな人にも愛と恵みを不公平なく注がれる方なのだと、そのような視点でみ言葉を黙想し味わうと、神のメッセージは如何に、私たち人間の心の中には自分中心の欲や妬みというものが潜んでいるかということを思い知らされる、そんな内容が先週のお話でした。神の思いよりも自分中心、人間の思いが先になってしまう私たち。私たちの心の狭さや妬みと、それに対して、神の愛の深さ大きさを表しているお話でした。
今日も同じ「ぶどう園」の話ですが、その内容は、神の国に入るためには神に立ち返る事、それはつまり悔い改め・回心が大切だということを教えています。今日のこのお話の背景には、イエスを何とかしてやり込めてやろうと思っている律法学者やファリサイ派の人たちがいることを考えなければなりません。そしてその人たちは、信仰にも聖書にも通じており社会的にも認められ尊敬されている人たちでした。イエスのこのお話は、そうした律法学者やファリサイ派の人たちへ向けても話されている内容です。
ファリサイ派の人たちから非難の的となっていた伝統を守らない人々が、回心をし洗礼を受けて、キリストと共に生きるようになった人々を長男に似せて話しています。また、掟を忠実に守っていたけれども肝心な時にはキリストを拒絶したり、神のみ旨を実行しない口先だけの人を次男に例えています。

キリストがたとえ話で強調するのは、神のみ旨、神の慈しみを実行することの大切さです。私たちも律法学者やファリサイ派の人たちのように、神の教え、神のみ旨を知っているということだけでなく、それだけで済ますものではなくて、いつも神のみ旨に心を向けて、反省し、回心し、悔い改めながら、さらに成長していくということを大切にするように、というのが今日のみ言葉です。
思い悩むことの多い私たちの日常生活、時には神に応えることがすぐに出来ずに戸惑ってしまう私たち。しかし、落ち着いて考える時が訪れたときには、神が示された道が見えてくるものだと思います。ですから慌てずにゆっくりと神に心を向けて、平和な心を取り戻して、新たな道に向って歩むことが求められます。
正しい道から、そして愛の心から離れたときには、神様に心の目を向けて、回心の恵みが求められます。私たちの信仰生活の中で、そのようなことがどのくらい大切にされているでしょうか。そのことに気付いているでしょうか。そのことを私たちはもう一度思い起こして今日のみ言葉を黙想したいと思います。

今日10月1日は、「幼きイエスのテレジア」の聖人記念日です。皆さんの中にもテレジアの洗礼名をいただいている方々がおられると思います。
テレジアは自分の使命を「わたしは神様の愛となりましょう」と宣言されたと伝えられています。15歳くらいの若さにおいて信仰の小さな道を歩んだといわれます。私たちもテレジアのように、自分に示された信仰の道、それは小さな道であるかもしれませんが、謙虚な心を持って、熱心な愛を持って、歩み続けたいと思います。』

2017年9月25日月曜日

年間第25主日 「ぶどう園の労働者」のたとえ

この日の主日ミサでは、マタイ福音書 第20章「ぶどう園の労働者」のたとえが朗読されました。

御ミサの後、7月に行われた「小田神父講演会の第一講話」のDVD視聴会が行われました。午後1時からは、札幌地区合同墓参が行われました。
先日の発生したメキシコ地震の緊急募金の呼びかけがありました。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『(説教の冒頭に後藤神父様は、先週開催された教区司祭黙想会の様子についてお話しされました。)
 それでは、今日、私たちに与えられた聖書のみ言葉を深めて参りましょう。
 ぶどう園で働く人たちの姿が思い描かれるみ言葉をさきほど聴きました。熱い日照りの中であれば、熱さに耐え、汗にまみれての労働はあたり前の時代だったと思います。そして、労働には相応しい報酬が当然あってしかるべきと私たちは考えています。ましてや朝から晩まで、自分に課せられた仕事をやり遂げて、その責任を果たしたとしたら、その報いを期待するのはだれもが当然考えることでしょう。でも、今日の聖書の話しは、そういう私たちの思い考えから少し違った展開をしています。聖書では夜明けから始まって働く人、そして修道院の日課にもあったように9時、12時、15時とそれぞれ3時間ごと区切られて語られています。そう計算すると最初の人は朝の6時から夕方6時まで12時間働いたことになる。そうすると夕方5時に来て働いた人は1時間しか働かなかったことが明らかになってます。12時間働いた人と、1時間しか働かなかった人の報酬が同じである。そこに気がつくと、私たちでも何となく、納得出来ない、エーッそれは許されるんですか、と私たちは現代的考えで思ってしまいます。不公平です。そんなふうに考えてしまいます。
 私たちの現代の社会でも正規雇用の職員とパート職員の働きと賃金の問題が良く新聞にも出て来ます。同じような仕事をしたときに、どうして大きな賃金の違いがあるのですか、と良く問題になっています。仕事の内容が違ったりすれば、ある意味で受け入れざるを得ないのでしょうが。仕事をやると言うことは いかにやり遂げ、その実行と責任が問われることですが、時には能力も判断されるひとつにあるような気がします。どんなにしても私たちは聖書の神の恵みの世界と、私たち人間的考え方とは随分違うことがはっきりと見いだせる、今日の聖書のたとえ話です。
  どこかで何となく不公平感がどうしても自分の心から消えない人について話をしてみます。私たちは永遠の救いを願って信仰も大切に生きています。教会のために、苦労して犠牲を捧げてがんばっておられる方はたくさんいます。しかし、人生の最後の最後に回心して洗礼を受けて亡くなられる話しを聞くときに、良かったですねと喜ばれる方もおられます。が、そんなことも許されるのですかという思いで話される方も少なくありません。○○泥棒と良く言います。それは最後の最後、洗礼の恵みを受けて亡くなられる方のことをいう言葉ですが、私たちの思いを代表している言葉のように思います。そんなことを考えると、若いときから洗礼の恵みを受けて一生懸命教会のために働いて来た人と、最後の最後、洗礼を受けて亡くなった方の神の恵みを考えると、今日の聖書の話しに少し繋がってくるような気がします。

 人生の長きにわたり信仰生活を送り、喜びや苦しみも主とともにあった。幼児洗礼の人はその恵みの特権にずっと与ってきたことを忘れてしまって、不平不満を言ってしまうようなことがあるような気がするのです。小さいときから信仰の恵みをいただいて、主と共にたくさんの恵みをいただいてきた人生がある。信仰の道があった。でも1時間しか働かない人に同じような神さまの恵みが注がれているとすれば、自分と比較して何となく不公平だなという思いがよぎってしまう。神の恵みは誰にもあると、そういうふうに考えると素晴らしいと思いながら、素直に喜べない瞬間が心の中に生じてしまう。神様の恵みは私たちが思う恵みとは違うということを私たちはもう一度、認識しておく必要があるのです。神様の恵みは遅れて来た人にも同じように与えられるんだ。神様の恵みはどんな人にも救いの恵みとして、常に招かれているものなんだ。私たちはやはりそのことを、ずっと心の奥に留めておかなければならないと思います。そのことを忘れてしまうと、遅れて来た人はそれに相応しい恵みで良いのではないかとか、もう少し私よりも少なくて良いはずですとか、そんな思いが心の中に芽生えてくるということではないでしょうか。
  神の憐れみに触れ一致する喜びを見て不公平を感じたり、その人たちに対する妬みの心も 今日の聖書の最後で触れらています。たとえ話の深い意味がここにあったようです。神様の憐れみと恵みは、私たちが主張する権利や利益中心の思いとは違うところにあるということ。妬む心はもしかすると「放蕩息子」のたとえ(ルカ福音書15章11~30節)にあったあのお兄さんの心に近いものが考えられないでしょうか。放蕩息子の話しを思い浮かべてください。放蕩息子と比べるとお兄さんは正義感も強くて、真面目で終日はずっとお父さんに仕えて働いていた人です。自分はこんなに長く真面目に働いていたのに一頭の小羊さえ貰えなかった。だけれども、遊びぼうけて財産を使い果たして、惨めな姿で帰ってきた弟のために、お父さんは喜んで迎え入れて子牛を準備した。そして、盛大な宴会までした。お兄さんは自分がそういう報いを受けたことがないという思いになって弟を妬みました。その宴会にも出席することを拒みました。私たちの難しい状態をパウロも今日の第二朗読で話しています。「恵みの世界と肉に留まるこの世の世界で板挟みになってしまう。」パウロは告白しています。わたしたちも神の恵みの大きさに感謝しているのですが、この世に捕らわれたときには、どうも妬みの心が起こってしまう。それが不平、不満につながってしまう。第一朗読のイザヤ書の言葉です。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり」と、神の思いを伝えています。

 慈しみ深い神はすべての人を例外なく限りなく救いの喜びに招き続けてくださっている方だということ。考えてみてください。わたしたちも度々失敗を犯しています。わたしたち自身もつまずき遅れてしまうことが何度も何度もあります。でも神様は遅れてきた私たちであっても。最初の人と同じように愛してくださっている神であるということに、私たちはもっともっと気付かなければなりません。どんな人をも救いに招かれる神。不公平のない神。その神を私たちが信じている神であること。そのことが私たちの大きな喜びのはずです。そのことを今日、改めて福音をとおして、気づかさせてくださったと思います。
 国際ディ、そして世界難民移住移動者の日、さらに今日は市内の合同墓参の日です。たくさんの意向が今日のミサの中に入っていきます。神の愛に感謝しながら、私たちの心を主の祭壇に捧げる事にいたしましょう。』

2017年9月18日月曜日

年間第24主日 「敬老の日の祈りと祝福」

今日のみことばで、イエスは私たちに赦しについて教えます。

ミサの中で、「敬老の日」を迎える先輩の方々へ祈りを捧げ、後藤神父様から祝福がありました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日のみ言葉は、罪と赦しがテーマとして語られます。
第一朗読(シラ書)では、「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。」と、罪と赦しについては、旧約時代から信仰に生きるものにとっては、大きなテーマということになると思います。
今日、イエスのみ言葉で「七の七十倍までも赦しなさい」と語られます。いかに赦すことが大切なのかということが、この数字からも理解できるかと思います。赦しの根源には、「憐れに思う」心があります。赦す心は、憐みの心に深く結びついています。聖書の中で説明されるその意味は、人間のはらわたから、内臓に由来して溢れてくる憐み、同情である赦しでなければならない、ということです。ですから口先だけ、言葉だけの赦しでは足りないということです。私たちも本当に心の底から人を思い、心を動かされて赦すという心にまで至らなければ、本当に赦すことにはならないのだと聖書では語られます。それは広い心を持って人を赦すという「七の七十倍」というとてつもない数字に深く結びついているということでもあると思います。頭や言葉では、私たちは十分にそのことを理解しているつもりですけれど、人の過ちを赦すどころか、時には非難し続けている自分がいます。復讐心を燃やし続けるような心が続いてしまうこともよくあるような気がします。聖書の中では、度々イエスの赦しの場面が語られますし、イエスの人を大切にするという教えの中でも赦しがあるということが語られています。

「敵を愛し、迫害する者の為に祈りなさい。」「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい。」たとえ敵であっても復讐してはいけませんと教えられます。まさに今、北朝鮮の問題は世界中で考えなければならないことです。世界中の人たちが忍耐を強いられています。
信仰から考える赦しと、今の時代の直面する問題とどう繋がっていかなければならないかということも、私たちにとって大きなテーマになるような気がします。
神様は、善人にはもちろん、悪人でさえも受け入れ愛してくださる方。そのことを私たちはとてもうれしく思いますし、そこに慰めを見出します。そして、そこに救いもあるような気がします。神様がそうあるように、私たちも自分に害を与えた悪人にさえも慈しみの心を持って、「七の七十倍」まで広い心で赦し、そして受入れなさい。まさに私たちが主の祈りで唱える「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人を赦します。」という言葉を実践できるようにならないといけないと思います。
私たちは今日もまたミサの前で、回心の祈り、悔い改めの祈りを唱えてミサに入っています。その悔い改めの祈りの中には、「私は、思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を 犯しました。」と祈ります。皆さんはこの祈りを唱えたとき、どんな思いを持って、罪を赦してください、と祈りましたか?どんな言葉で罪を犯し、「どうか主よ赦してください。私はこのミサの中で御子であるイエス・キリストのからだをいただこうとしています。どうかふさわしい心でいただくことが出来ますように。どうか私の言葉による過ちを赦してください。」と、ふさわしく準備する祈りを捧げたでしょうか。どんな「行い」や「怠り」があって悔い改めようとしたでしょうか。そのようなことを具体的に考えると、きっと一日だけでも沢山の過ち、反省が起こってくるような気がします。
隣人や罪に対して、寛大な心で人と接しているだろうか、そんなことを考えなければと思います。
「七の七十倍」という数字に、私は驚いて今日の日を迎えました。私自身の個人的なことになりますが、「七の七十倍」という数字が、私に言われているような気がしています。9月7日に、私は誕生日を迎え古希で70歳を迎えました。偶然ですが、「7日に70歳を迎えた」ということに驚いています。今日の聖書のみ言葉は、私に語られていたのではないかと。私も7の70倍をゆうに超すほどの過ちを繰り返しながら70歳を迎え、赦しを願いながら歩み続ける人生が先に見えています。

今日の聖書のみ言葉(マタイ18章21~「1万タラントンの赦し」)では、莫大な借金を王の憐みによってゆるされた家来が、自分にわずかな借金のある仲間をゆるさなかったという内容でした。このたとえ話の家来は、どこか私たちに似ているのかもしれません。自分の罪には寛大でも、人の小さな罪に対しては、なかなか赦すことも、自分の心から消し去ることができない。それが私たちなのかもしれません。それだけに「赦す」ということをもう一度、心に留めなければと思います。

過去を水に流すこと、負債を帳消しにすること、赦しは愛の行為であり、憐みであり、そして恵みでもあるということ。赦しは、相手が何をしたかに関わらず、相手に対してされたことを心に留めないという決意が求められるということ。私たちの信仰生活の中で、愛と赦しは大切なテーマです。

さて、今日はもう一つ皆さんにお願いし、一緒に祈らなければならない日が来ました。明日は国民の祝日でもある「敬老の日」ですが、今日教会ではこのミサの中で、この敬老の日を迎えた先輩である人々と共に、祈りを捧げたいと思います。
生きると言うことは老いていくということでもありますが、老いるということをマイナスのイメージで考えてしまいがちです。神の恵みとして長寿を感謝し、いっそう元気に生きられることを願い、家族や子供達のために祈りを捧げることを喜んで受入れられたらと思います。教会を支え、私たちのために労苦を惜しんで働かれた長寿を迎えている人々を敬い、感謝して祈りましょう。』

2017年9月10日日曜日

年間第23主日  ー チャリティバザー「かてどらる祭」ー

今日は、北一条教会のチャリティバザー「かてどらる祭」の日でした。
好天にも恵まれ、大勢の皆さんがご来場しました。


この日の主日ミサは10時から、英語ミサと合同で行われ、勝谷司教様が司式されました。


勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『(司教様は、まず英語でお話しをされ、その後、時間的なこともあり要約のみ日本語で説教されました。)
 私たち日本人は、面と向かって人にアドバイスを与えることは苦手でないかと思います。特に相手が神父、司教であるとなおさらのことだと思います。どちらかというと、直接その人のことを何か言うよりも、陰でみんなで何かを言って、その人の耳に入るのは回り回って、「こんなことを言ってる人がいるよ。」というような噂で耳に入ることが多いのです。これがいつのまにか、私たちの共同体を支配する妖怪のようなものになってしまうことは多々あります。ただ、どうでも良い小さな欠点をあげへつらって、みんなでとりたててどうこう言うのも必要無いことですが、重要なことに関しては、私たちはきちっとそれに直面する必要があるわけです。

  今日の福音書や朗読聖書の流れを見ると、過ちを犯した人を正す義務があるというふうに受けとめてしまいがちですが、果たしてそうでしょうか。私たちはおうおうに、間違っている人を見ると、集団でその人をやり玉にあげて対処してしまう傾向があります。しかし、多くの場合、その人は私たちの教会共同体を去ってしまう結果をもたらしてしまいます。ただ単に、複数の人数でその人を追い詰めることが求められているのではありません。むしろ、私たちが過ちを正すというときに、その人の救いのために何が出来るのかという観点で考えなければなりません。そう言った意味で今日の箇所は、過ちを犯した人をただ直す、忠告せよという意味ではなくて、むしろその人が私たちの共同体にとってかけがえのないメンバーであり、私たちと同じく救われることが大切です。
 ですから私たちの救いのために、私たちの共同体のために、今キリストが何を望んでいるのか、ということを識別するために、祈る必要があります。そして、それは共同体の祈りです。二人三人が共に祈るとき、私はその中にいると言うのはそのような意味です。
 共同体的な識別のセンスを私たちが持って、私たちが一人ひとりの救い対して責任を負っているのだと。そういう観点から私たちは互いに愛を持って忠告し合おうと、今日の福音は求めているのだと思います。』

御ミサの後、11時からチャリティバザーが始まりました。
オープニングは聖堂玄関前で、聖園幼稚園の子供たちの合唱と、司教様のギター弾き語りが披露されました。



やわらかい秋の日差しがそそぐ中、談笑の輪が拡がっていました。




2017年9月3日日曜日

9月3日(日)年間第22主日 「札幌地区使徒職大会」

9月3日(日)午前9:30から、札幌地区使徒職大会が藤学園講堂で行われました。


昨年12月から今年の4月にかけて受洗された80数名の方々が一人一人紹介されました。

レンゾ・デ・ルカ神父(イエズス会日本管区長)の講演「福者ユスト高山右近の霊性に学ぶ」が行われました。


この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。


『昨年、私たちは教区100周年の年を閉じる式典を行いました。多くの未来に向けた提言がなされ、それに基づいて様々な取組が各地区地でなされていることを嬉しく思っています。昨年の提言では、司祭が減少し信徒も含めて高齢化する中で、建物としても、そして共同体としても、いかに教会を維持・発展していくことができるか、そういうことについての新しい発想や提言がなされました。引き続き、各地区で様々な努力をなされていることを嬉しく思っております。
  しかしながら、私たちの取組のスピードをはるかに超えた速さで現実も動いております。道北地区や北見地区、そして帯広地区では司祭が一人しかいません。函館地区でも多くの教会や施設、修道会を抱えながら、高齢の司祭を含む二人の司祭しか司牧に携わっていません。今までは考えられなかったことですが、道内各地の観想黙想会=トラピスチヌ修道会やカルメル修道会=でもミサが出来なくなっているのです。
  一方、札幌地区でいえば、司祭の減少は深刻な問題ですが、司祭の休暇や出張を除けば、地区内教会ではほとんどの信者が、毎週、主日のミサに与ることが出来る現状です。つまり、札幌地区内では、主日の司祭の数が足りているのです。確かに各教会に一人以上の司祭がいた時代と比べると大変な現象です。十分な司牧活動は昔のようには出来なくなっています。ミサに与ることが出来ると言っても、司祭が兼務している複数教会で、交互に主日ミサを行っているところが多くなっています。それでも現状を他の地区と比べると、大変恵まれていると言わざるを得ません。札幌地区の皆さんには、このことを理解していただき、今後近い将来、他地区との格差をなくすために、司祭の再配置を考える時に、協力してくださるようお願いいたします。

   また、青少年活動についていえば、昨年の報告では、新しい流れとしてミッションスクールを通しての活動がありました。夏冬2回行われているフィリピンボランティアとエクスポージャは相変わらずの人気ですが、参加者のほとんどがミッションスクールの生徒です。しかし、函館では、このミッションスクールの生徒を通して「地区高校生会」が作られ、小教区で活動をしています。旭川地区や北見地区でもこの函館地区の取組に習って、「函館モデル」としてミッションスクールと小教区教会との連携の取組を始めようとしています。
 札幌地区にはどこよりも多くの、そして規模の大きいミッションスクールがあります。青少年委員会の企画に多くの参加者がいても、その活動が小教区の活性化に繋がっていない現状を見るならば、ミッションスクールと地区教会との連携の可能性を是非模索していただきたいと切に願います。
  小教区を通しての青少年活動はかなり深刻です。先ほども加藤(神父)札幌地区長の話しにもありましたように、わたしの記憶するかぎりでは初めてのことだと思います。今年の高校生の夏季キャンプの申込みが一人もいなかったために企画が中止になりました。このままだと細々と続いている「春の錬成会」も開催できるかどうか危惧されます。
  とはいえ、明るい兆しもあります。今月16日から支笏湖で、全国の青年が集まる「ネットワーク・ミーティング」が開かれます。年に2回、全国か100名以上の青年が集まるイベントです。今回は札幌の青年たちが準備し開催します。この青年たちは、地区の小教区を基盤として動いていないので、教会内では目にぬきにくいのですが、熱心に活動をしています。この全国から集まる「ネットワーク・ミーティング」の運動体自体、教会の組織的な繋がりではなく、ネットワーク的な繋がりで集まるグループ、全国の若者たちです。彼らの中には、先日行われた「アジアユースディ」、「ワールド・ユースディに参加して、世界的な繋がりを持ち、この集まりを通してそれを共有しあっています。このような活動をどのようにして応援出来るのか、していけるのか。そして、それを教会の活性化にどう繋げるのか、私たちの意識しだいだと思っています。
 バチカンで行われる次回の世界代表司教会議(シノドス)のテーマは「若者・信仰・召命の識別」です。私が代表として参加することになっていますが、青年を育てることなくして、未来の教会はないという、この世界共通の危機感、これに真剣に対応していこうと今、世界の教会全体が取組を始めています。今までの常識と視点を転換して、求められる青少年支援の在り方も、是非、私たちは考えていかなければならないと思います。今日の午後、青年活動の報告もありますので、彼らと共に考えていただきたいと思います。

  今現在、私たちが思い描くことの出来る未来図は、悲観的な材料ばかりであることは確かです。今日の福音書のペトロの言葉のように「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と、言いたくなるような現状です。これに対してキリストは「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、叱咤されます。人間のことを考え、私たちが変わろうとする努力を放棄して、現状を嘆いているところからは何も生まれません。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(マタイ14:16)これは空腹の5千人を前にして打つ手をなくした弟子たちに対して、キリストが発した命令です。人のことを思うとき、不可能に思えることも、神のことを思って働くとき私たちの無力さを通して、神が働かれることを私たちは確信しています。
 そのために必要なことは、出来ないと思える心にこそ呼びかけられている主の招きに信頼して、私たちを賭けることです。まず、私たち一人ひとりが変わる必要があるのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」そういう今日の言葉をよく考えてください。私たちは十字架の意味を、私たちの意図とは関係なく負わされる苦難や重荷として、受け身に捉え理解しがちです。しかしキリストは、「十字架を負わされる」とは言っていません。「自分で負え」と、言っておられるのです。自分で選び取って、自分の意志で負えと言うのです。

 キリストが担った十字架は、私たちへの愛のために、ご自分の命を捧げることを自ら敢えて選び取ったものです。「自分の十字架を負え」と言う意味は、あなたを愛する誰かのために、あるいは大切な何かのために、自分を捨て自分を捧げるという意味と解釈することができます。 望ましくない現状を嘆くのではなく、そこに示される希望の光を輝かさせるために、私たちを変えていくことが求められています。
 第二朗読のパウロの言葉です。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるかを、わきまえるようになりなさい。」』

第21回 カテドラルコンサートのご案内

第21回 カテドラルコンサート 「トランペットとオルガンの響き」

大事なお知らせ:開演時間が午後3時00分から、下記の時間に変更になりました。お間違えのないようご注意ください。

2017年10月14日(土) 午後4時30分開演(開場午後4時00分)
カトリック北一条教会 聖堂で行われます。

当教会オルガニスト 大野敦子さんと、札響のトランペット奏者 前川和弘さんのジョイントコンサートになります。秋にふさわしい しっとりとした演奏をお楽しみください。

2017年8月27日日曜日

年間第21主日

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」というイエスの問い掛けに「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたペトロに、イエスは「天の国の鍵」を授けました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今朝6時頃、聖堂に入ってみると、壁に架けられている「十字架の道行」第12留のイエスが十字架上で息をひきとられるレリーフに、ちょうど朝日の光が当たっていて、とても良い光景に巡り合うことができました。そして、8時くらいにまた聖堂に入ってみると、光は祭壇の方に移動していて、ステンドガラスからの赤い光も交じって、とても温かくてきれいな光景でした。朝早く教会に来るとそのような恵みにも与れるかと思います。

さて、今日のみ言葉の舞台は先週に続いて、異教の地にイエスと弟子たちが出かけていた時の話です。異教の地であってもイエスの評判は人々の関心を呼び起こしており、イエスのことをまだよく知らない人たちによって、いろいろな噂が起こっていたようです。
それは、会ったことのない人や一度も話を聞いたこともない人が、イエスのことを「洗礼者ヨハネが生き返った」、旧約聖書に出てくるエリヤだとか、立派な予言者の一人ではないのか、などの様々な噂でした。私が驚くのは、みな過去の偉大な人の名前をイエスに結び付けて考えていたということは、やはりイエスはただならぬ人、ちょっと不思議な魅力のある人というように伝えられていたのではないかと思います。
「この人は何者なのか」という問いは、私たちも信仰の道を歩み始めたとき、そのような質問を心の中で問い掛けながらイエスについて学んでいたのではないでしょうか。聖書の中では最初のうち、正気を失った人とか、悪霊に憑かれた人とか、そのように言われていたイエスです。しかし時の流れとともに、今日の聖書の時代に入ってくると、そのような見方をする人は誰もいなくなり、徐々にイエスの真の姿が理解されるようになってきたということです。
しかし、イエスは自分と共に過ごしてきた弟子たちが、自分の本当の姿を理解しているのかと問いかけます。弟子たちは噂話をしていた人々とは違って、いつも直接イエスを見て触れています。何度も何度もその話に耳を傾け、奇跡を目の当たりにしていた弟子たちです。噂話をする人たちと、今一緒に歩んでいる弟子たちの私に対する見方はどうなんだろうか、イエスはそのことを確認するかのように「あなたがたはわたしを何者だと思うのか」と問いかけます。
その中で、弟子を代表するかのようにペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白をしています。この「生ける神の子です」という箇所は、共感福音書の中でもマタイ福音書にだけ書かれています。イエスの真の姿を理解しなければ言えない言葉がペトロによって荘厳に告白されたのです。この時、イエスはすぐに「あなたは幸いである」とペトロを賞賛します。これも他の福音書では書かれていないことです。
当時の人々は、苦しい状況の中で、政治的に救いと解放を望んでいた面もありましたが、ペトロだけは、そのような人々が期待しているようなメシアではなく、人類を罪から解放し永遠のいのちに導く方として「生ける神の子」と告白したのです。
イエスこそ、全ての人を父である神に導く方、道であり真理であり命なのだ。ペトロの信仰告白には、そのような思いも含まれているようです。
ヨハネ福音書には聖書を書く目的が記されいます(20:31)。その内容は、「これらのことをあらわしたのは、イエスが神の子であることを信じさせるためである」とあり、まさにペトロの信仰告白もその目的を叶えたかのような内容になっています。
神の子となる洗礼を受けた私たち、そしてそこから信仰の道を歩み始めています。その出発点にはペトロの信仰告白、信仰宣言があるのです。

マタイの福音では、他の福音に記されていない3つのことが加えられました。
1.すでに信仰によって神の国の幸せに与っているのはあなたである。あなたは幸せである。と、ペトロはイエスから直接、そのような言葉をいただきました。
2.新しい使命のしるしとして、教会を建てる礎となる「ペトロ」という新しい名前を与えられ、さらには天国の鍵を与えられました。
3.イエスが名指しでペトロだけに権能を授与しています。霊的な共同体である教会の最高責任者であることを示唆しました。
このようにして、マタイの福音書だけに特徴のある記述がされているのが今日の福音です。天国の鍵、それは現代の教皇様に与えられているものとして継承されています。その教皇様は、忙しく世界平和のために働かれていることは皆さんもご存知のとおりです。私たちは教皇様のためにも、私たちはもっと深く信頼を持って祈らなければと思います。

このように、今日はペトロの信仰告白を中心にみ言葉を考えてきましたが、ペトロは完璧で模範的な使徒の一人になったということではありませんでした。すぐにはペトロはこの信仰告白をそのまま生きた人ではなかったのです。この信仰告白の直後にもペトロは何度もイエスに注意される出来事を起こしています。サタン呼ばわりされるペトロも聖書には書かれています。どんなに立派であったとしても完全な人にはなれなかったペトロです。

十字架に向って歩むイエスの姿を思う時、私たちも戸惑いを感じながらイエスの姿を追いかけるのではないでしょうか。何故、神の子であり、救い主であり、そして奇跡を起こす力を持っているイエスが、こんなに辛い状況に置かれているのだろうか。こんなに残酷な酷い仕打ちを人々から受けているのだろうか。こんな人に私たちはついていっていいのだろうか。本当に神の子なんだろうか。様々な思い戸惑いが私たちの心の中でも湧き上がってくることはあるのではないでしょうか。
時には、イエスの教えを理解していると宣言しながら、平凡な現実の幸せを手放すことさえできない私たち。そのような弱さはきっとペトロにもあった人間の弱さではないでしょうか。ペトロもそのような弱さを持ちながら、失敗を繰り返しながら、強い信仰の人として宣教していきました。そのような信仰も恵みによって支えられているということではないでしょうか。
道であり、真理であり、命であるイエスの招かれる永遠の道を、私たちも見失うことなく信仰を歩みたいと思います。』

2017年8月20日日曜日

年間第20主日「カナンの女の信仰」

今日の福音朗読「カナンの女の信仰」から私たちは何を学ぶでしょう。


ミサの後、カテドラルホールで聖母被昇天のお祝い会がありました。

聖歌隊による讃美歌合唱

蓑島神学生から近況報告


手話を交えた聖歌合唱

後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日の聖書の内容を理解するためには、当時の社会、時代の背景を少しでも理解しておくと、深まるのではと思います。今日のお話の中で特に、「子供もたちのパンを取って小犬にやってはいけない。」というところの話しですが、聖書と典礼の脚注にも説明が出ていますが、このことを少し理解しておくと、なるほどという理解になってくるような気がします。
 イエス様の時代。ユダヤ教の熱心な人々がたくさんいる時代です。    旧約の信仰をずっと受け継いで、その信仰を守るユダヤの人々。そういう中にイエス様は旧約の教えを完成するために、ユダヤの人々だけではなく、イスラエルの民ばかりではなく、すべての人が救われる。救うために私は来たと、新しい教えを展開して人々の注目を集めています。でもその時代、社会の熱心な人々はほかの異教徒の人と交わってはいけない。接してはいけない、言葉も交わすなというくらい、自分たちの信仰のみに熱心でした。そして、自分の信仰を第一に考える人が多い時代でしたから、異教の神、特に今日出てくるカナンの人々に対しても厳しい見方をしていたということです。だから、異教の人々がイエスの前に来て、何か願いごとをしたり、話しを聞いたり、そういう姿を見ているだけで、当時の人々は多分、弟子たちを含めて「何でこういう人たちが来たんだ?」とか、そういう思いで見ていたと思います。
  「この女を追い払ってください。」と言う弟子たちの声がここにも書かれていますが、そういう背景の中で、うさん臭い人たちも来た、そういう思いで話していたとも思います・

  そういうことを理解しながら、イエス様とカナンの女の人との関わりの話しが、今日の聖書の展開になります。愛する我が病気で苦しむ姿を見るのは、どの親にとってもそれは辛いことだと思います。子供が病気、悪霊にとりつかれている。そんなところでお母さんは、ひどく心を痛めています。何とかして、この子供の苦しみを救いたい、助けたい。そういう思いで「主よ助けてください。私を憐れんでください。」と叫び続けています。でもイエスはこのお母さんの願いを、その訴えを聞きながら、答えることなく沈黙したというのが、最初のお話しになっています。
 そして、イエスは「わたしは、イスラエルの家の迷える羊のところにしか遣われていない。」先ほどの内容がここに反映されていると思います。一見、私たちはこうしたイエスの言葉に目を留めると、「自分はあなたと関わりがない。」という冷たい答えに聞こえてきます。イエスの愛はいったいどこにいったのだろうか。愛を説かれていたイエスがこんな冷たい態度を異教の民の女性に対してとっているのは、ちょっと不思議に思いませんか。私たちの求めることや願いと、イエスがもたらそうとする世界は違っていたんだろうか。イエスがそんなに冷たい人とは思えない、私たちにとって何かイエスの意図がそこにあった。そういうふうに考えたくなります。

 私たちを新しい世界に、神の国が近づいたという世界に招きいれるために、イエスが遣わされていることを、私たちは忘れてはならない。そういう視点で私たちもまた、イエスの話しに耳を傾けなければならない。でも、落ち着いて考えるとそう思いますが、新しい世界に相応しい生活になかなか向かうことの出来ない、日常の生活をごく普通に送っているという、私たちではないでしょうか。
 イエスが説かれる世界、イエスが話される教えを守る世界、それよりも私たちが培ってきた伝統や習慣や虚栄心。私たちはイエスの教えよりも、自分たちの考えを優先して生活しているのが現実だと思っています。そこには私たちが大切にする昔からの言い伝えや習慣を守ること。そのことのほうが、イエスの教えよりも優先してしまうことがたくさんあるということだと思います。私は、時々、自分の中でも反芻することがあります。昔からこう言われている、こう守られてきたことだからそれを大事にして欲しい。私は親戚がたくさんいます。そういう中で、叔父さん叔母さんがたくさんいます。叔父さん叔母さんは大先輩にあたる年代の人ですから、叔父さん、叔母さんに言われると私もどこかで黙って聞いてしまうことになりますが、叔父さん叔母さんは昔の言い伝え、伝統、習慣というものをとても大切にする人が多いのです。昔からこうやっているんだよと言われると、そうなのかな、そうしなければいけないのかなと、無理やり納得して、それに従って私はずっと育ったような気もいたします。
 そのくらい私たちは昔の伝統とか、習慣とか、昔からそうなってるんだよと言われると抵抗できない。その正しさの根拠がはっきり分からないために、従ってしまうことがたくさんあるような気がします。それはいつから始まったのか。テレビのクイズの解説か何かに時代を遡って、いつごろかそういう習慣が始まったのか放送されることがあります。以外と、昔と言ってもそんな昔ではなくて、ついつい近代国家に入ってからの生まれた習慣がたくさんあることが気付かされます。日本の鎖国が解かれ、日本の国が近代化に向かう中、これまでの考え方や思想も国策、政策もまた大きく変化する日本が、新しく生まれ変わろうと発展していきます。そういう中で、生活の中でもいろいろな習慣が変化して変わっていく時代になりました。新しい生活習慣も生まれてきました。そうした時代の過去であっても、もっと古い時代からのことだと思って、そうしなければならないものだという思いになってしまう。根拠をしっかりと理解しない限りは、やはり大先輩の人から言われると、従うざるを得ないというのが若い者の宿命かもしれません。
 イエスの時代にもまた同じようなことがあったのではと私は考えます。イエスは旧約の律法から、 律法学者やファリサイ派の人たちが主張する掟を守ること、昔からの伝統、習慣が正しいわけではないと、神の教えと愛を説かれて、信仰を大切にする新しい世界に人々を解放するためにこの世に遣わされた。イエスはそのために教えを説かれて、人々の中に入っていかれた。でも、なかなか思うようにはいかなかった。イエスの前には、信仰宗教についてずっと学び続けてきた律法学者やファリサイ派の人々が、いつも目の前に立っています。彼らが伝える伝統、習慣や掟は、信仰を生きる上で守らなければならないこと。でも、みんながそれを守るならば、イエスが目指そうとするその目的とは、また違った生き方になってしまう。新しい教えを考えるよりも、やはり新しい教えを聞いても、掟が大事と言われてしまえば、みんなそっちの方がそうだろうなと理解してしまう。
  聖書の中にいくつかお話しがでてきます。食事の前に手を洗わなければ。そんな話しも、掟があって、食事の前には手を洗わなければならない。罪を犯すことになる習慣があります。宗教者はイエスに、何故あなたの弟子たちは手を洗わないで食事をするんですか。そんなことが許されて良いのですか。そんな話しをされている場面も語られています。戒めを守らない弟子たちを見て糾弾する律法学者たち。それはどういうことでしょうか。弟子たちは信仰を大切にしていたはずではないでしょうか。イエスの教えを聞いて、自分たちの信仰を見つめなおしていたはずでした。でも、律法学者たちの目から見ると、神を信じる信仰よりも、伝統や戒めが大事な彼らにとって、手を洗わない姿は罪を犯すことで糾弾になってしまう。

  そういう背景も少し心に留めながら、今日のイエスの、はじめに見せた姿。異邦人であるカナンの女性が心から神を信頼して助けを求めているのかを探っていたんだろうか。そんなふうにも私は最初考えています。「私を憐れんでください。」二度目には「主よどうかお助けください。」子供のために悩む苦しむ女性が必死に頼みます。
  今日の私たちが聴いた聖書の言葉を少しずつ見ていきますと、始めに「私を憐れんでください。」と、この女性はイエスに願っています。そして、その次には聖書では変わって「どうかお助けください。」憐れんでくださいとお助けくださいは、この場合似たような内容で話されているように感じます。でも、聖書で使うときには違いがあると言われています。どんな違いでしょうか。カナンの女がイエスの前に出て来て。女が出て来て話し始めています。「出て来る」と言う言葉にも私は注目しています。通常、遠くから来て必死になってお願いしなければならない女性は、イエスの前に立って頭を下げたでしょう。お願いを始めたでしょう。この時、聖書の言語学者の説明によると、「もし出来るなら私を憐れんでください」。そういうニュアンスでこの女性は最初にイエスに願っている、という説明があります。立ったままイエスの前でお願いします。「もし出来るならお願いします」「どうか憐れんでください」こういうニュアンスで最初話されたと記されています。
  ところが、次の言葉に注目していくと、その女性の態度が違っているのに少し気付くと思います。次にイエスの前に出て話した女性の言葉の最初に説明が出ています。女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よどうかお助けください。」。最初は来てすぐ立ったままで「できるならば、憐れんでください」と言った女の人は、イエスは沈黙して何も答えず、聞いてくれない状況をずっと見守りながら、今度はひれ伏してお願いしています。大きな違いがはっきりと見えてきます。最初はニュアンスとしては、出来るならばお願いしたいと言っていた女が、今度は地面にひれ伏して、きっと頭を地面につけてまでも、無我夢中でひたすらイエスに願ったのが見えてこないでしょうか。全面的な信頼、そしてへりくだる姿勢がこの女性を変えていきます。その心がイエスに届きます。屈辱的と思われるような地面にひれ伏す態度。私たちも聖書の情景ですが、そこまでしてイエスにお願いする母親の姿をみると、私たちも心がすごくそんな気になってしまいます。
  その後、小犬の話しが出てきて、イエスと言葉を交わす女性の姿があります。その小犬の話しは、先ほど背景として理解して欲しいことに繋がってきます。イスラエルの民は「子供たち」との表現は「自分たち」と考えていたと言われます。神の子供は自分たちイスラエルの民だけだ。祝福を受け契約を結んだのは、神の子として私たちが契約したイスラエルの民だけだ。だから救われるのはイスラエルの民だけだ。そういう思いが強い旧約の信仰をずっと受け継いで来ている人々です。イエスはそういう当時の社会背景を見て、神の民の加護を異邦人にあげてははいけない。こんな表現をとって聖書は語っています。今の時代の聖書の教え、神様の教えとは違ったかたちで表現されているわけです。
 でもこの女性は答えます。「小犬も主人の忠実な僕のようにして、食卓から落ちたパンをいただいております。」。今、私にとって主人はあなたしかいません。主であるあなたが私の主人なのです。ですからどうか助けてください。憐れんでください。私はあなた以外に頼るものはありません。こういう状況に入ってきています。イエスは厳しく冷たいかのように見えましたけれど、けっしてそうではなく、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」と、その女性を讃えます。そのイエスの言葉には、冷たさや厳しさではなく慈しみが溢れてきます。イエスは、魂の深みでしっかりと恵みを受けとめようと必死になっている、母親の信仰も見つめられました。厳しい態度をとりながらも、母親の真実な叫び、信仰の叫びを受けとめています。

 神の計画の中で、私たちには予想も出来ない試練を受けることが、人生の中で度々起こっています。良く私たちが思い浮かべるのは、大きな病気や苦しみ、悲しみがあります。何故、私はこんな大きな苦しみを負わなければいけないのでしょうか。何故こんな試練を私にだけ与えるんですか。そういう思いをすることは誰にもあると思います。何故ですか、神様? 厳しく問い詰めようとする祈りが生まれてきます。そのときはきっと、自分の苦しみから自分が救われることしか考えられなくなります。  
 でも信仰において考えて落ち着くと、それが神の目的であるならば、その試練が神のみ旨であるならば、私たちは神を信じる者として、受け取らなければならない。そういう気持ちも生まれてきます。きっと神様はこの苦しみを通して、その試練を通して良き計らいに私を導いてくれるでしょう。そうした希望に心を向けて、その苦しみに耐えようとします。この悲しみを受けとめようとします。けっして神を利用して、自分だけ、自分中心の楽しい生活を送るような信仰ではないはずです。神の目的がそこにあり、神のみ旨がそこにあるならば、それを受けとめなければならないというのが、私たちの信仰ではないでしょうか。
  聖書のお話しで二度目に、この女性は娘が悪霊にひどく苦しめられているとは言っていません。娘を助けてください、娘を治してください、癒してくださいという言い方は出てきていません。でも必ずしもそういう表現がないからと言って、この母親は自分だけの救いを考えたとは、私たちはきっと考えもしないと思います。どんな結果でも、あなたが与えてくださるなら、受け取る覚悟は出来ています。そういう思いで地面にひれ伏して、お願いしていると思います。立派な信仰だ。イエスが話されたのはそういう一人の女性の気持ちをしっかりと受けとめたからだと思います。

  私たちも自分の信仰をもう一度振り返ります。私はどうでしょう。私の信仰はどうなっていたでしょう。私の祈りは自分の目的のためにだけ、祈りをしていなかっただろうか。そんなことも考えながら今日のみ言葉を深く味わい、新しい1週間に向かいたいと思います。自分の思いがかなう祈りではなく、神のみ旨が私たちの間にゆきわたりますように。私たちは「主の祈り」を毎日のように唱えていると思います。その祈りの中には「神の御名が崇められますように」という祈りが出てきます。それはきっと、私たち一人ひとりのおごる心を乗り越えて、イエスの前に近づくことが出来るようにという信仰を表していると思います。告白していると思います。
 イエスとの信頼の心を揺るぎなくして、共に歩む私たちでありますように。今日もまた、主の祭壇の前に心を一つにして、イエスに近づいて行きましょう。』


2017年8月15日火曜日

聖母の被昇天 (終戦記念日)

午前10時から「聖母被昇天」の祭日を記念するミサが行われました。


引き続き、終戦記念日にあたり12時に鐘楼の鐘が鳴らされ、戦争犠牲者と平和のためにお祈りを捧げました。

この日の後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。


『今日の「聖母被昇天」の祭日にあたって改めて、マリアの存在と崇敬の意味を教会がどのように教えているのか振り返ってみたいと思います。
マリアは教会の数多くいる聖人の中でも特別な存在です。それは、神の母、すなわちキリストの母であり、贖い主の母として認められ、教会の母として讃えられているからです。
多くの人は「聖母被昇天」を迎えて、神様よりもマリア様に心を向けて祈っているように思うこともあるのですが、まず、神様があっての被昇天であることをしっかりと理解して祈ることは大事なことです。
アヴェマリアの祈りで「神の母、聖マリア、わたしたち罪人のために、いまも臨終の時も祈り給え」とあるように、マリア様の役割については、キリストの結びつきから切り離すことはできない救いのみ業につながっています。』

2017年8月14日月曜日

年間第19主日

この日の福音では、「パンの奇跡」のすぐ後の出来事として、自然界の嵐が語られています。

夏休みで帰省中の蓑島神学生が聖体奉仕をされました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『毎年の事ですが、8月に入って高校球児の熱い夏が始まっています。野球ファン、特に高校野球のファンにとっては、たまらない高校球児の姿ではないかと思います。汗にまみれ白球を追う球児の姿に、私も青春そのものを 見て感動したりしています。テレビ画面に釘付けになっておられる方もいるかもしれませんが。
 今日の朝6時には、陸上の世界選手権の100メートルリレーで、日本のアスリート、若者たちが銅メダルを獲得したニュースが流れてきました。テレビ画面では観衆の大きな嵐がどよめくように聞こえてきますが、金メダルが確実と見られていたジャマイカのウサイン・ボルトという選手が足の故障で棄権しメダルを逃した。そのせいもあって日本がメダルにくらいついたと言えるかもしれませんが、日本の陸上界の若い人たちの力が、どんどん世界のレベルにまで達していることは、今年の陸上界をテレビで観ていても私自身感じるところでした。

 テレビの画面では熱烈なファンの嵐が呼び起こされていますが、今日の聖書では自然界の嵐が語られています。先週は「主の変容」の祝日の日曜日でした。この「主の変容」は移動日になりますので、必ずしも日曜日にあたるとは限りませんが、今年はたまたま日曜日に重なって「主の変容」を先週祝いました。そのために、普通であれば先週の日曜日には、5000人の人にパンを分け与える「パンの奇跡の話」が語られるところでしたが、その話は消えてしまって、「主の変容」のみ言葉を私たちは聴いたわけです。ですから今日の聖書の話は、通常「パンの奇跡」の後に語られるお話しが今日のみ言葉になっています。ですから、今日のみことばの最初は、一言そのことが分かるようなかたちで触れられています。「人々がパンを食べて満服した後」というみことばが語られているわけです。パンの奇跡の内容は弟子たちの想いと、イエスの思い違っている、そういう内容で展開していました。弟子たちは群衆を解散させてほしい、もう夕食の時間でもあるし、大勢の人に食事を与えることは難しい。だから解散させてくださいとイエスに申し出たのですが、イエスはそうではなくて、パンをかき集めて奇跡を行い、5000の人に満腹させるために食べさせたという話しになりました。

  今日の「パンの奇跡」の後に続くみ言葉を私自身いろいろ受けとめ考えます。私自身は今日のみ言葉で、イエスのひとつひとつの行動、行為、言葉にいくつかの注目するポイントが出てきます。一つは強いて舟に弟子たちを乗せて群衆と引き離していること。何故イエスは強いて弟子たちを群衆と引き離したのか。また、イエスと弟子たちもいっしょに離れた場所に動き始めることがとても気になる箇所です。もう一つは、イエスは一人山に登って長い間、夕方まで祈りを捧げます。イエスは弟子たちから離れて一人祈ったこと、何故一人で祈ったのか、どんな祈りを捧げたのか、そんなこともとても気になる内容です。さらに、舟に乗っている弟子たちのところに湖の上を歩いて行かれた。それは不思議なことですが、水の上を歩いたイエスの姿もまた、とても気になる特別な出来事として考えます。そして、最後のひとつは、それを見たペトロがイエスの呼びかけに従って水の上を歩こうとした。だけれども、最初は歩いていたはずなのに、突然嵐の風に感じいって気付いた。そのことに心が向かったら沈みかけた。 自分の不信仰のために溺れかけたという内容が繋がっていきます。そういうイエスと弟子たちの行動のひとつひとに特別な意味があるのだろうと、黙想になってしまいます。
  今日の第一朗読では自然の山が舞台となって、激しい地震や風が起こったことを語っています。自然の嵐、出来事。今日の湖の嵐に繋がるような話しが、すでに第一朗読で語られていた共通点も見えてきます。私たちが生きるこの自然界には、常に私たちが予想もできないことが起きてきます。そして今日の福音では湖の上で恐ろしいの嵐の物語です。人生の嵐も考えられます。私たちはそういった人生の嵐の前では、どんなふうに、どのように自分の信仰を見つめているでしょうか。自分の信仰を生きているのでしょうか。そういうことも今日の聖書のお話を通して考えることが出来るようです。

  イエスは一人で祈るために敢えて弟子たちと離れて祈ります。敢えて弟子たちと離れた内容が語られています。私は、「敢えて」という内容がますます気になるかというか、どうしてそのようにしたのだろうかと気になります。そしていろいろなことを考えます。一人で祈られたイエスの祈りはどんな内容だったのか、どんな祈りだったのか。弟子たちから距離をおかれたということは、そこにどんな意味が隠されているのだろうか。これまでずっと共にいたイエスと弟子たちであるのに、このときは離れた。そういう時間を過ごしている、その内容がとても気になります。
 そして、弟子たちの信仰、不信仰という話しが続きますが、「パンの奇跡」のときにおいても、また湖の上を歩かれた主の姿を見ても、後においては弟子たちは信仰告白を常にしていきます。これまでもイエスの奇跡を目の前にして、弟子たちはその驚くべき出来事の前で神の力、イエスの力を思い知って信仰告白を何度もしてきました。先週の「主の変容」の場面においても、ペトロガ信仰告白したことを私たちは思いおこすことができると思います。そんな弟子たちの姿、そしてそんな弟子たちの信仰をイエスは常に見つめていた。その危なげな、迷ってしまいそうな信仰を常に受け入れながらも、弟子たちを強め励まし、神の国、神の力を教え続けていた。  イエスが一人祈るその姿は、もしかすると近づいてくる、エルサレムに向かう、十字架に繋がるご自分の道の使命を祈っていたかもしれない。この時期、遠からずイエスはエルサレムに向かい、受難と十字架の道に辿り着こうとしています。そういうことを想像することができるなら、その前表としていずれ自分は弟子たちと離れざるを得ない。そういう心境もあって、このとき一人山に登って弟子たちと離れて祈られたのでしょう。そして弟子たちはイエスと離れている中においても、共にいるイエスを感じなければならないなずであったのに、  共にいるイエスを忘れて常に不安な状況になってしまう、まだまだ信仰のおぼつかない弟子たちの姿があらわになるような気がします。 

  私たちが信頼する神に心を向けるとき、神の慈しみが見えてきています。感じられます。イエスの言葉にも慰めを見いだし力を頂くことができます。でもそれは神に信頼し、イエスに信頼し心を向けて祈っているとき、そのときは本当に神の慈しみの中に感謝の気持ちが見出せます。不安もそうしたときにはほとんど感じないで  神への信頼から力を頂いているのだと思います。
  パウロが話しています。「だれがキリストの愛から私たちを離れさせることが出来ようか。」(ローマ8:35)神との信頼がはっきりと掴めているときにはまさにパウロの心境に繋がっていきます。回心したパウロの信仰もそういうふうにして、かつてとは全く違った形で自分の信仰を精一杯、命をかけるくらい生きようとしていきます。
 今日の第二朗読でもパウロの言葉がこのようにありました。キリストは万物の上におられ永遠にほめ讃えられる神。まさに信頼がゆるがない信仰を持つパウロの言葉がこうした言葉になってきます。
  一人山に登りただ一人祈られた、聖書はそう伝えてきます。イエスのいない舟に乗った弟子たちは、陸から少しづつ離れて行く中で風を感じ、波が段々と強くなっていくうちに、舟が揺れはじはじめたときに不安を感じています。波と戦っている舟は言うまでもなく私たちの教会を指すかもしれません。そして私たち一人ひとりのこの世での人生、そうしたひとときを表しているのかもしれません。舟の進行が妨げていると、波は悪のシンボルのようにも感じます。誘惑のようにも感じます。またそれは私たちが直面する困難であり不安を誘うものとしての嵐につながっていくような気もします。教会に対する信仰と信頼を揺るがすことは、今の私たちの社会にも教会にも、けっしてないわけでもありません。私たちの教会の中にも時には、困難を見いだすこともあります。そしてそれを作ってしまうこともないわけではありません。
  そういう中で私たちが直面してくる困難、不安、嵐。揺れる心でもしキリストを見たとしても、もしかすると弟子たちのように幽霊としてか目には写らないのかもしれません。不安や動揺や心を騒がせるような状態では神さえも見いだせない、見つけられない。突然のようにもし地震が起きたり嵐が起これば、神の世界を見失って慌てふためくのが私たちではないでしょうか。この頃は時々、日本でもよく地震が起こっています。北海道でも何度かありました。震度1であればそれほど動揺することはないかもしれませんが、テレビのニュースで震度3などと報道されると、治まってからでも心が落ち着かなかったりします。動揺するのは弟子たちだけでなくて、私たちも同じようなことがいえる。奇跡の前で感動もし、力強い信仰告白も何度もしてきた弟子たち。それは私たちの信仰の体験の中で、神の慈しみに何度も感動して、信仰告白をして、祈りを捧げてきたのと同じかもしれません。

 私たちの信仰、困難や嵐に立ち向かわなければならない私たちの信仰の中で、私たちは神を見失うことのない状態で信仰を生きているでしょうか。神に信頼をよせているでしょうか。そんなことも今日のみ言葉で考えさせられます。信仰は希望や平和を私たちに与える機会にもなっていますが、私たちの信仰はただ頂く恵みを生きるというものではないはずです。信仰は人生の嵐や不安の中で、迷い苦しみながらも成長するものであることに、気付いていきたいと思います。ただ恵みを頂く信仰ではなくて、迷ったとき、苦しみにあったとき、神が一瞬見えなくなったとき、そうした試練をとおして、私たちの信仰を成長させなければならないものだと思います。私たちの日常におこる動揺から神から目を離すことなく、そしてペトロのように水に沈んでいくような信仰ではなく、もっともっと神に心を向ける努力をしていかなければと、今日そういうみ言葉を聴かされているような気がします。
 旅する教会でもある私たちの信仰。そして人生を考えるとき、予測出来ない嵐のような人生の途中で吹かれる風があります。危険な波も寄せてくることがあります。そうしたことを予測したり、戦うことは常に私たちの心の中に覚悟として持っていなければ。その嵐に勝ったときには、すぐにも神から目をそらす信仰になってしまうような気がします。どんなときも強い信頼を持って神に心を向ける信仰を私たちは願っていかなければならないと思います。今日もまた、そのことを私たちの祈りとして、教会の祈りとして捧げながら、主のご聖体に近づきたいと思います。』

2017年8月6日日曜日

主の変容

72年前のこの日、広島に原爆が投下された8時15分に教会の鐘楼で「平和の鐘」が鳴らされました。犠牲者への追悼と平和のために祈りましょう。

ミサの中で二人の子供たちの初聖体がありました。この日のために夏休み返上で準備をしてきました。おめでとうございます!


ちょっと緊張気味かな・・・


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『夏も真っ盛りという8月を迎えています。九州の豪雨災害、世界中で起こるテロ、つい先日の北朝鮮のミサイル発射など、私たちの毎日を不安にさせる出来事が続いています。また、国を代表する政府も混乱する中、8月6日の今日、広島は原爆投下から72年目を迎える夏になりました。
新聞の記事で見ましたが、今年新たに5,530人の亡くなった人の名前が追加され刻まれているそうです。今もきっとこの時間、式典が続いていることだと思いますが、名前もわからないままの人を含めると30万8,725名の方々の死没者名簿が今年も納められて式典が進められているようです。想像を超えた死者の数です。私たちは毎年今日の日を迎えて、今日だけは少なくともそのことに心を寄せて、平和の願いを祈りに込めてミサに与る方も多いかと思います。
昨日はこの北一条教会において平和講演がありましたが、日本の教会では平和旬間として15日の平和祈願ミサまで、平和を考える期間が設けられています。平和的に利用するという名目で使われている核、原子力の事故がいまだに収まらないというのは誰でも知っていることです。私たちも歯がゆい思いをしていますが、今日は犠牲者に祈りを捧げながら平和のためにも祈っていきたいと思います。

さて、福音朗読では「天の国」のたとえが毎日曜日ずっと続いていましたが、今日のみことばが伝える内容はガラッと変わって、「変容」のお話になっています。「主の変容」の祝日を迎えています。主の変容の話は、4つの福音書のうち共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書でその出来事が語られています。この3つの福音書に共通することは、変容の出来事の前にペトロの「信仰告白」が記述されており、これには非常に大きな意味があるのではないかということを聖書学者たちは気付いています。変容の前に、弟子の一人ペトロが「信仰告白」をしている、その後で主の変容が起こっている。ペトロの信仰告白と何か繋がりがあるのではないか、ということが解釈上考えらえます。
変容の出来事の少し前には、洗者ヨハネがヘロデ王によって殺されています。そしてそのことを含めて、イエスの噂はどんどん広がっていっているようで、色々な人が噂をしています。聖書では、イエスのことを「洗者ヨハネではないか?」「予言者エリヤではないか?」といった、そういう噂もあったということです。イエスはそのような噂を弟子たちから報告され、イエスは弟子たちに問いかけます。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」この質問に逸早く応えたのがペトロです。「あなたはメシア、あなたは生ける神の子です。」と真っ先に応えたのです。その後に、今日の変容の出来事が起こったということのようです。

イエスは、ご自身の栄光の姿を弟子たちに見せた後に、やがて訪れる受難と死を打ち明け、さらに三日目に復活するということも弟子たちに話します。この出来事、そしてイエスが弟子たちに自分の将来について話した後、聖書の流れはこれまでとは大きく変わっていく内容になっています。エルサレムへと向かう受難の道へと進んでいきます。
主の変容の姿を間近に見て、弟子たちは驚き、同時に終末の素晴らしい姿をイエスから感じ取ります。特別に選ばれた三人の弟子たちは、ユダヤの思想を回顧したことでしょう。出エジプト記で、モーセが山で神と出会い、山から下りてきた時、白く輝いており、神から十戒を授かったという過去の言伝えを改めて思い出していたのではないでしょうか。今日の第一朗読においても、人の子が現れて、その変容の姿を記しています。モーセもそのような出来事に遭いました。予言者もそのような変容の出来事を語っていました。ですから、弟子たちは過去に聞いてきた出来事とイエスの変容を重ね合わせていたのだと思います。

私たちの思いから遥かに超える栄光の出来事です。私たちから考えると現実離れしたものというようになってしまうかもしれません。でも、この弟子たちが体験したことは、現実から遠く離れたところにある輝きではなくて、現実を輝かしめていることが神の栄光であるというように、考えることはできないでしょうか。

イエスの十字架と復活の出来事は決して離れたものではなくて、切り離すことはできない結びつきを持っています。イエスはこのことを変容の直前に弟子たちに話していました。聖書には「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。・・・・人の子は父の栄光に輝いて天使たちと共に来る・・・・」とあります。
日常的な現実を超えた体験をした弟子たちでしたが、イエスを信じた弟子たちにとって決してそれは驚くべき体験ではありません。限界を超えたかのような体験ではありましたが、信仰を支える力としていった弟子たちではなかったでしょうか。私たちに、この変容の出来事はどのように映っているでしょうか、そして捉えることができるでしょうか。
私たちの信仰の支えとなるような出来事として捉えることができるならば、それは素晴らしい幸いなことになると思います。
弟子たちにとって、この幻のような体験に意味があり、みことばがありました。今日のそのみことばを私たちも聞きました。
「これは愛するわたしの子、わたしの心に適う者。これに聞け」みことばが天から聞こえてきたとあります。弟子たちにとっては、その天からの声もイエスの洗礼の時に聞いた声と同じみことばであるということを心に留めたのではないでしょうか。

時代と場所を超えて私たちにも迫り語ってくる神のことば。弟子たちにとってこれから苦難が迫ってくるのですが、この栄光の出来事は、現実に力と勇気、さらに希望を与える出来事でありました。私たちの信仰においてもこの出来事が、慰めや希望に繋がっているものでありたいと思います。
今日の変容の出来事を黙想しながら、私たちにとっても希望や励まし勇気となる、そうした理解のもとで受入れられるよう祈りたいと思います。

今日このミサで、初聖体を受ける二人の子供がいます。子供たちは夏休みを返上するように集中的に準備を進めてきました。昨日は「赦しの秘跡」の勉強をして心をきれいにしています。そのきれいな心の中にイエス様が訪れようとしています。お二人の初聖体に神様の祝福を皆さんと共に祈りたいと思います。』

2017年7月31日月曜日

年間第17主日 小田武彦神父様をお招きして

7月29日(土)~30日(日)に、小田武彦神父様(カトリック大阪大司教区司祭、聖マリアンナ医科大学特任教授宗教主事)をお招きし、「ミサ 愛の秘跡に生かされて」と題して講演会が行われました。


主日ミサ後に行われた2日目の講演では、教皇ベネディクト16世 使徒的勧告「愛の秘跡」を引用され、キリストの愛の秘跡とご聖体をいただく意味、信徒の務め、大切に心がけなければならないこと、などについて解りやすくお話いただきました。
私たちが日常生活を過ごすなかで埋没しがちな使徒的意識を目覚めさせていただけるような大変有意義な講演会となりました。特に「私たちが与るミサと日常生活は深くつながっていることが大切です」という言葉がとても印象的でした。イエス様の語られる真理を、私たちは日常生活を送るなかでいつも心に留めておくことが出来るよう祈りたいと思います。






講演会後に小田神父様を囲んでの茶話会では、参加者からの質問にご丁寧にお答えいただき、また、司祭を志すきっかけや、当教会主任司祭 後藤神父様との神学校時代のエピソードについてなどについてもご披露いただき、楽しいひと時を過ごすことができました。
小田神父様、遠いところからお越しいただき大変有難うございました。

この日の主日ミサを司式いただいた小田神父様のお説教をご紹介します。


『今日の第一朗読は、ソロモンがお兄さんのアドニヤとの争いに勝ち、ダビデの王の位を正式に受け継ぎ、ギブオンで一千頭もの焼き尽くす献げ物を捧げ終わった日の夜に、ソロモンが見た夢の話しです。王になったばかりのソロモンは焼き尽くす献げ物を捧げながら、神に向かって必死に祈り続けていたのでしょう。神に感謝し、愛と信頼を込めて語りかける恵みを願い続けていたはずです。焼き尽くす献げ物を捧げ終わった夜、そんなソロモンの夢の中に神が現れて「あなたの願うことを何でも与えよう。」と、おっしゃってくださったのです。ソロモンはアドニヤとの争いに勝つことによって王の位に就きました。その激しい争いの様子は旧約聖書の列王記上1、2章に書かれていますが、けっして生やさしいものではありませんでした。ソロモンはあらゆる手を使って反対勢力を一つ一つねじ伏せ、必死になって王としての立場を確かなものにしていきました。
でも、ソロモンは自分の力で王になれたとはけっして思わなかった。今日の第一朗読の7節をご覧ください。ソロモンの最初の言葉です。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。」実際は激しい争いによって王になったのですが、ソロモンは自分はあくまでも神のみ旨によって、王として立てられたのだと本音で受けとめていました。そして、ソロモンは続けて主に向かって語り掛けます。「私は取るに足りない若者、でどのようにふるまうべきかを知りません。」取りあえず国内を統一することはできたけれど、自分は指導者としてまだまだ未熟だと、ソロモンは自覚していました。それでソロモンは主に向かって 「聞き分ける心をお与えください。」と、必死になって願いました。今日の第一朗読の最後。神はその願いを聞き入れてくださり、聞き分ける知恵、知恵に満ちた賢明な心を与えてくださったと、第一朗読では語られます。

 今日の福音朗読でイエスは、天の国についての三つのたとえを語っておられます。イエスが語る天の国とは、死んでから行くいわゆる天国や極楽のことではありません。つい私たちは、天の国というと日本語の天国と、「の」が入っているか入っていないかの違いなので、「ああ死んでからの世界」と思ってしまうのですが大きく違います。天の国とは神様との交わりそのもの。神との親しい関わりのことです。
  今日のたとえ話しの最初の二つは良く似ています。畑の中に宝を見つけた人も、高価な真珠を見つけた商人も、ともに自分の持ちものをすっかり売り払い、見つけた宝や真珠を手にいれます。つまり、神様と共に生きる天の国というのは、持ち物すべてを手放してでも手に入れたいと願うほどの、貴重で喜びをもたらすものだということです。三つ目のたとえ話しは少し雰囲気が違います。天の国が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を寄せ集める網に似ていると言われます。天の国にはあらゆる魚を集める網のように、すべての人が包み込まれていると言うのです。
 ここで本当に私たち、しっかりとこのイエス様のたとえ話しに耳を傾ける必要があると思います。死んでから行く天国、極楽というイメージで生きたら今日のこのたとえ話し、間違って理解してしまいます。と、言うのはこのたとえ話しの中では、天の国の中には悪い者も含まれているからです。天国、極楽だったら悪い者がいるはずがない。勝手に私たちそう思い込んで、イエス様のお話を誤解して平気で聞いている可能性があります。しっかりと福音を味わいたいと思います。でもこの悪い者とは前の二つのたとえで、持ち物すべてを手放してでも手にいれたいと願うほど、貴著な天の国に気づいていない鈍感な人のことだと、聖書学者たちは解説しています。ですから、悪い者と言われても、つい私たちがなんか意地悪をする人とか、いうふうに思うとこれも違ってきます。私たちが日々出会っている、あらゆる出来事に現れている神の働き。つまり、天の国に気付かない悪い者どもは、世の終わりに泣きわめいて歯ぎしりすることになるだろうと言われます。私たちはすでに天の国を生きているんです。もう私たちの日々の生活の中に神様が働いてくださっているのです。神様が関わってくださっているのです。それに目をつむっていると悪い者だと言われるのです。世の終わりに泣きわめいて歯ぎしりすることになるだろう。私たち、つい子供の頃から極楽の話しを聞いていて、嘘をついたら舌を抜かれるよとか、何かそういう物語、説話の世界に生きていて、ついイエス様の話をいつのまにか、そういう日本の説話の話しとごっちゃまぜにして受けとめている可能性があるのではないでしょうか。
 52節の「天の国のことを学んだ学者」とは、学問に秀でた人と言う意味はありません。そうではなくて、日々の出来事の中に神様の働きが見ることが出来るようになった人のことです。ですから私たち、別に特別な有名な大学を出ていなくても、日々の生活の中で、市場であるいは道端でいろいろな人とおしゃべりをしながら「あっ、神様がここで働いてくださっている。神様が関わってくださっている。導いてくださっている。」と感じることが出来たら、それを感謝することが出来たら、「天の国ことを学んだ学者だ。」とイエス様は今日のたとえ話しの中でおっしゃっているのです。

  第二朗読をご覧ください。パウロは、神を愛する者とは、神のご計画に従って召された者のことだと語ります。私たちが神様に出会させていただき、神様の導きに従って、神様の導きを大切にして生きることが出来るようになったのは、神様が呼びかけてくださったからです。もうすでに、私たちは神様の働きの中で歩み始めています。だから私たちここにいるのです。感謝です。私たちが今ここにいるのは神様が導いてくださったから、召し出してくださったから。
 イエスによって神の支配が始まりました。でもまだ完成はしていません。この世の中には、まだまだ悪が複雑に混じりあって存在しています。ですからちょっとでも油断すると、悪の誘惑に負けてしまいそうになります。こういう世の中だからこそ、パウロは言います。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになった。」のだと。こういう世の中だからこそ、神様は私たちを召し出してくださった。私たちを義としてくださった。そして、義とされた私たちに栄光を与えようと神様ご自身が、今日も働いてくださっているのです。神様は救いの計画を確実に実現しようと、今日も私たちに働きかけてくださっています。洗礼を受けてキリスト者になるように召された者には、万事が益となるように共に働くことが知らされています。
 ですから、体験している様々な出来事の中に、神様の働きを見ていることがとても大切なのです。私たちの日々の生活の中で神様が働いてくださっている。それはどんなことでも良いのです。ちっぽけなことかもしれません。でも「あっ、ここに神様が働いてくださっている。」人との出会い、あるいはお花、大自然の営み、いろいろなことの中に神様が働いてくださっている。そして、今日私たちがここにこうして集まっているのも神様の働きです。
 なぜ私たちは今日ここにいるのでしょうか。神様が呼んでくださっているからです。私たちの仲間のなかには来たくても来れなかった方々がいらっしゃいます。その方々のことを思いおこしましょう。突然朝になっておばあちゃんの具合が悪くなった。ミサに行きたい。でも、ミサに行くよりもおばあちゃんの世話をすることを優先する。だから今日、ここに来られない方がいらっしゃるかもしれません。周りを見まわして、「あっ、いつもいらっしゃる方が、今日はいらっしゃってない。」そしたら、その方の分も私は祈らなくちゃ。その方のいろいろな事情のために、「どうか神様、私がいただいている恵みを使ってください。」と差し出していく。御ミサのときにパンとブドウ酒を献げていく時に、そういう私たちの頭を使って、わたしたちの普段のつきあいを思いおこし、それは信者だけではないです。ご近所のおじいちゃんのことであったり、職場の最近、何かうつ状態になっている仲間のことだったり、いろいろなこと全部思いおこして、私たちの日々の生活の中に神様が働いてくださっている。それを思いおこすために、神様が私たちを今日ここに呼んでくださいました。

 わたしたちが日々体験している様々な出来事の中に、神様の働きを見、ソロモン王と同じように「聞き分ける知恵、知恵に満ちた賢明な心を与えてください。」と心から願い、もうすでに始まっている天の国、でもまだ完成していない、その途中で神様が「おい、手伝って!」と呼びかけられて、私たちはここに集まりました。「こんな私でよければ手伝います。」と、新たな決意を持って、希望を持って祈って参りましょう。』




2017年7月23日日曜日

7月23日(日)年間第16主日

今日のみことばは「毒麦のたとえ」でした。
私たちの心のうちには"良い麦"もあり"毒麦"もあるのではないでしょうか。
最後まで忍耐強く待たれる神の慈しみについて黙想しましょう。

今日のミサは勝谷司教様の主司式でした(共同司式:後藤神父様、佐久間助祭)


佐久間助祭と蓑島神学生のお二人が夏休みで帰札しました。
ミサの後、お二人からご挨拶がありました。



司教様のこの日のお説教をご紹介します。

『今日の福音のたとえを皆さんはどうお読みになったでしょう。終わりの日に毒麦は焼かれ、麦は倉に入れられる。これを終わりの日の裁き、あるいは個人的な回心を求めるたとえと思ってはいないでしょうか。確かにそういう部分もあります。最終的に私たち善人が報われるのだという希望を与えてくれるメッセージでもあります。
 しかし、今日の福音のポイントはむしろ、それとは逆のことを言っているのではと私は解釈たいと思っています。たとえ悪人であっても、神は忍耐をもってご覧になり、第一朗読にあるように裁きではなくて、寛容と慈悲をもってお臨みになられます。この箇所を個人主義的に読めば本来の意味を見失ってしまいます。今日のメッセージは書かれた当時に、そして現在に共同体に向けられたメッセージです。この話しを私たちの社会や教会共同体にあてはめて考えてみてください。何故、あんな人がいるのか。この人さえいなければ。私たちは自分勝手な好みや独善的な正義感で人を裁いてしまう傾向があります。そして、それが多数派になれば、その人を排除しようとする動きも出てきます。毒麦を抜こうとする僕の姿は、このように私たちの共同体にも良く見られることです。
 しかし、福音にも書かれているとおり、実際は毒麦と麦の区別ははっきりとつきにくいのです。アゥグスチヌスやフランシスコなどは、私たちの知るそのほか多くの聖人たちも多くは、始めのうちは多くの人々から毒麦と思われていた人たちです。実際、誰が自分は神の倉に入れられるように出来るかと言えるのでしょうか。むしろ、自分を良い麦と考え、人を毒麦だと断罪し排除しようする者こそ、イエスが神の国から遠いとされたファリサイ人と、同類とあると知るべきでしょう。私たちのうち、だれ一人として完全な善人や絶対的な悪人はいません。すべての人の内に、毒麦も良い麦も存在するのです。すべてを善か悪か、白か黒かはっきりさせて裁いてしまおうとする態度は、イエスが批判した律法学者の態度なのです。
  そう考えると、終わりの時に焼かれる毒麦のたとえは恐ろしい裁きではなくて、むしろ喜ばしい救いのメッセージであると気付かされます。誰かが裁きを受けて焼き滅ぼされるのではなく、すべての人の中にある毒麦が取り除かれるのです。焼き尽くされるのは私たちの中の愛に反する心で、この炎を通して私たちは純粋な愛の世界へと導き入れられるのです。自分の力では克服出来なかった悪への負担、罪の現実が神の愛の息吹と炎によって、籾殻のように吹き飛ばされ焼き尽くされるのです。残るのはキリストを中心として、完全な愛の交わりに生きる私たちなんです。       
 今日の福音を単純な完全調和のたとえとして考えるのではなくて、私たち一人ひとりの心の中に見極める神の私たちの思いを純化し、神の愛において純粋なものなるように祈りながら、ごミサを捧げて参りましょう。 』

2017年7月16日日曜日

7月16日(日)年間第15主日

今日のみことばは「種を蒔く人」のたとえでした。
イエス様からいただいた"種"。私たちはどんな実を結ばせることができるでしょう。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日のみ言葉は、最初の一節から映画のシーンを見ているようにイエス様の姿が浮かんできます。群衆が取り巻き、その背景にはガリラヤ湖畔の緑豊かな畑も目に浮かんでくるようです。そして、その向こうには羊の群れが無心に草を食む光景や、舟が浮かぶ湖の湖面の波も眺められるような気がしました。
状況はまったく違いますが、イエスが2000年前に話された話を、私たちが今日ここで聞いているという不思議さも感じています。イエスが今日語られたのは「種まき」の話ですが、場所も時間も超えてたった今、私たちは聖書をとおしてその話に耳を傾けています。
皆さんの心にはどのようにイエス様のことばが届いたでしょうか。

パレスチナの自然、その湖の周りは大地が広がり、緑の草や木が豊かに生い茂る自然の姿がありました。地を耕すと、すぐに土の香りが広がる世界が、彼らの生活・現実でした。
耕す土地は、良い土地もあり、悪い土地もあり、また石だらけの土地もあるようです。だから種を蒔いたとしても、どんな土地に種が蒔かれるかによって、たとえ芽を出しても、その成長や収穫も大きな違いとなってしまうというのが今日のお話です。
一方時代を超えて、このみ言葉に耳を傾けている私たちですが、実際に土を耕したり、種を植える生活をしている人はほとんど少ない現状だと思います。種が芽吹いたり成長する姿を見ることもまさに稀なこと、スーパーや店に並ぶ立派に育った見栄えの良い野菜等を手に入れるだけ、それは幸いなのか不幸なのかということを考えます。

もし、イエス様の語られるみ言葉が"種"だとしたら、そのみ言葉を聞き、受け入れる人の心が土地であるというのを、今日のたとえから私たちは考えることができます。イエス様のみ言葉が"種"、その種を私たちは心に受け止めて、どんな心の中に種を植えているでしょうか?種はうまく芽を出しているでしょうか?私たちは成長させて、実り、収穫を手にすることができるでしょうか。聞く人の心が「良い土地」、「悪い土地」、そして「石だらけの土地」ということが考えられそうです。私たちの心はどんな種類の土地になっているでしょうか。
実を結ぶ種であったとしても、道端に落ちたか、石だらけの土地、土が薄い土地に落ちたか、または茨の中に落ちたか、それによって決定的な違いが生じてきます。いくら実を結ぶ種であっても、どんな心の中に受け止められたかによって、実り方も違ってくる。イエス様のたとえの後半では、種が育ったときには、3種類の収穫があるという話をされています。同じ種からでも収穫は30倍、60倍、100倍とそれぞれ違いがあるということを話されています。
まさに自分に置き換えて考えてみるとき、私たちが受け止めた恵みの種はどんな実を結ばせているのだろうかと、考えざるをえません。心が曇っていたり、鈍っている人には、神の奥義は理解できないだけでなく、み言葉そのものさえも受け入れることができないとも言われます。
私たちは日曜日ごとにみ言葉に耳を傾けていますが、キリストの言葉を受け入れ、それを悟るためには、心の貧しい人、小さな人、素直な人、謙虚な心を持たなければならないというところに、私たちはどうしても辿りついていくようです。

イエスの話は、そのような意味で、私たち一人ひとりの決意、覚悟によって、随分と違ったものになっていくということにもなります。
心に蒔かれたものをすぐに奪われてしまう人、苦難や災害にすぐ躓いてしまう人もいる、また、この世の思い煩いや富の誘惑に負ける人がいる、一方、み言葉を聞いて悟る人もいる、というように聞く人の違いが強調されて、今日私たちに語られています。
種よりもむしろ心の状態、土地の肥沃が大きく影響するということだと思います。それはすなわち、私たち自身の心にかかっていることを悟らせる話になっています。
私たちはその話を聞きながら、群衆がそのことを理解することができただろうか、とそんな心配もしています。

結論としては、多くの実を結ぶ最善の方法は、キリストのみ言葉を素直に受け、聞き入れること。そして実際の生活の中で、忠実にそのみ言葉を実践することが大切である、ということになるかと思います。よく私たちは霊的な実りという言葉を使うことがありました。霊的な実りとは、聖書を読むこと霊的な読書をすることとも繋がっていましたし、より良い熱心な祈りを捧げることでもあります。霊的な実りを結ぶということは、聞いたり、見たりしている私たちの決意にかかっているのではないでしょうか。

イエス様は話されています。たとえ失敗が続いても、神の国の働きには必ず希望が与えられること、信仰は必ず報われるということを諭してくださっています。私たちは弱く罪深い一人ひとりであるけれども、神に信頼しながら今日の共同祈願の答唱にあるように「神よ、あなたの道を歩ませてください」と祈り続けることが大切になってきます。
神に信頼し、私たちがその使命に応えることができるように、今日もまた心を合わせて祈りたいと思います。』

2017年7月10日月曜日

7月9日(日)年間第14主日

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
このイエス様の言葉は人々をやさしく包み込む言葉です。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『平日のミサはこの北一条教会は、朝と晩の時間に行われていますが、水曜日だけは午前10時のミサが行われています。今日はその時の様子を皆さんにお話ししたいと思います。10時のミサの後で時間のある人たちはカテドラルホールに集まって話し合いを行っています。その話し合いのテーマはいつも決まっていますが、それは日曜日に聴いた聖書の言葉をもう一度ゆっくり読んで黙想して、話し合いを始めましょうということになっています。ですから水曜日の日は、その週の最初の日曜日に読まれた福音を、そして説教を思い出す方は、説教も含めて分かち合いに入っていきます。自分が思っていること、感じたこと、 そんなことをみ言葉と関係させながら、時にはある人は聖書の言葉がちょと分からないとか、疑問に思います、そういうことも話されますが、そういう分かち合いをしながらお昼まで過ごしています。

  先週(日曜)のみ言葉でこの水曜日に話し合いをしましたけれど、先週(日曜)のみ言葉、一週間過ぎましたが皆さんは思い出しますか? 先週の日曜日に聴いた福音、出だしはちょっとショッキングなイエス様の話しがあったと思います。ショッキングに受けとめた人もいれば、そうでない人もおられたと思います。どんな(ショッキングな)話しだったかなと今、皆さん 思い起こそうとしておられます。イエス様はこんな話しをしたんですね。「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。」「息子や娘を愛するものもふさわしくない。」さらに「自分の十字架を担って従わないものはふさわしくない。」ふさわしくないと言う言葉を3回続けて、どんなことがふさわしくないか話されたのが、先週私たちが聴いた聖書の言葉です。きっと、皆さんの中にもこのお話を聴いて、愛する家族を持つ皆さんにとって、多少なりとも困惑を感じた方がいたかもしれません。人に自慢出来る信仰ではないにしても、自分の家族よりもイエス様の方を愛することが大事であると、信仰において考える人はたくさんいると思います。でも、イエス様、神様を愛することは、何よりも大切と頭では分かったつもりではいても、家族も愛もまた大切だと。そういう現実の中で、どっちかを選ばなければならないとすれば、まさにイエス様のお話は困惑を感じさせるお話だったのではと思います。
 どちらを選ぶか。イエス様を選ぶか、家族を選ぶか。もしそういう選択、どちらかを選ぶように聖書の声が聞こえたとしたら、困惑した方が多いかもしれません。水曜日には、そうしたことも含めて分かち合い、話し合いが進んでいきました。自由に話し会う中で、ほかの人の考え方に耳を傾けるときに、固まってしまった自分の考えにも理解にも、また自分の考えているその世界にも、少しその柔らかさが入ってきます。また、その世界が少し広がるような思いでほかの人の話に耳を傾けることができます。ほかの人の話を聞いていると 自分が気付かなかった体験を持っている人もおられて、そういう話しが耳に入ってきます。心に響きます。ああ、そうか。そう言う意味合いにもとれるんだなと分かってくると、必ずしも自分の考え方がにっちもさっちもいかない思いでいたものが、そういうふうにも考えられたらこのみ言葉は、もっと深い意味があったと気付かされて、そっちが大切だということにも気付かされます。イエスが話された大切の教えが見えたとき感じられたとき、心の中の不安や困惑も少しずつ消えて薄らいでいく、そんな思いになることが良くあります。

 私は皆さんとの分かち合いの中で、神が何よりも大切という、そういう希望を生きた殉教者について少し話しをさせていただきました。それは、日本の26聖人の中にいた、子ども達の殉教者の信仰でした。皆さんもご存知のように、26聖人の中には3人の十代の子供がいました。19歳の人がいましたからその人を入れたら4人になるかもしれません。(19歳と比べると)もっともっと若い3人の子供もいたのです。一人は12歳の最年少のルドビコ茨木。長崎のアントニオといわれる13歳の子供もいました。そしてトマス尾崎という14歳の少年もいました。トマス尾崎は自分が殉教し十字架に架けられるときに、お母さんに手紙をしたためたそうです。その母への手紙はあまりにも有名な話しです。その手紙の一節にはこのように書かれています。「臨終には十分に罪を痛悔し、イエスキリストの幾多のお恵みを感謝なされば救われます。」お母さんに宛てた手紙でこのように触れた14歳のトマス尾崎がいます。そして十代の子供が十字架に架けられるとき、母親を前に私のことはご心配くださいませんようにと声をかけたと言います。そして、特にトマス尾崎は2人の弟がお母さんのもとにいて、自分たちを見つめたそうですけれど、二人の弟もよろしくお願いしますと、お母さんに手紙でしたためていたといわれます。こんな十代の子供の信仰を考えて、私はこの信仰こそ本当に家族の愛よりも、神様の愛を選択したのだろうと強く感じています。そして一人の少年はお母さんに天国で会いましょうと叫んで十字架に架かったといいます。そういう記録、手紙が残されています。特にトマス尾崎の母への手紙はあまりにも有名で、私たちに感動をもたらします。「私よりも父や母を愛するものは、私にふさわしくない。」というまさにそういうイエスの言葉をそのまま生きた信仰がそこにあったということで、殉教者の栄誉に向かったのだと思います。
 そういう意味で分かち合いをしているときに、自分たちが気付かない中に、たくさんの信仰を見ることは出来ます。感じることができます。そういう分かち合いが行われています。神を愛すること、だれもが大切だと思ってはいますが、現実に自分の妻や子供のことを考えたときに、どちらかというとそちらを大切にして選択してしまうこと多いかもしれません。分かち合い全体の中では、神様の愛が何よりも第一にあって、そして私たち家族への愛も生かされているというお話をされました。この世をこえて永遠の生命の世界に行きつくときには、だれもがきっとイエスこそ希望の光であり、そのことをだれもが願って死に向かう、そんなことを考えます。そう思いながらも現実には、この世の愛を、家族の愛を私たちは選んでしまうことが多いかなと思います。

  今日、そういう中でイエス様は私たちに告げます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」このイエス様の言葉は人々をやさしく包み込む言葉です。心にやさしく響く言葉です。疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。私たちはこういう言葉を家族の者には言えるかもしれません。でも家族以外の者にこういう言葉を責任をもって言えるかと考えると、簡単に言える言葉ではないと思います。でも、イエス様はすべての人にこういう言葉をかけて私たちを導いてくださいます。イエス様であるからこそ、無制限に無差別に言えた言葉だと私は思います。気持ちはあったとしても責任をもって、こういう言葉をだれにも言えないと私自身考えてしまいます。でもそうなりたいと心から願います。イエス様の愛と教えは、私たち人間の弱さと限界をはるかに超えたものです。
そして、私たちが持ってるエゴとか欲望のかげりがないのが、イエス様の愛の心だと言えると思います。私たちが真実の愛を知るとき、愛する人を喜ばせるために夢中になることができます。そして苦労をものともせずに働くことさえもできます。そういう体験を持っている方もたくさんおられると思います。でもその愛する人はだれにでも与えられるかというと、愛を私たちは考えてしまいます。家族であるからこそ、子供であるからこそ、労苦を惜しまずに働いて
愛を捧げることができるのだと思います。
  今日のみ言葉を黙想していると私はこう考えます。大人になるほど純粋な愛が、私たちは失われていくだけです。イエスは父なる神を、幼子のようなものとして示されたとありますが、もし自分のエゴとか欲望にかられると、神の愛は少しずつ遠くなっていくということになるような気がします。私たちのエゴとか欲望を超えない限り、神の愛にさらに近づくことは難しいと思います。それが幼子のように神の愛、父なる神を示された言葉のように私は思えます。
 
 すべての人を見つめ続けて愛し支える力は神のみであり、またイエスに見る愛だけかもしれません。だれにでも私のところに来なさいと呼びかけるイエスの愛こそ、私たちが目指すべき
愛ということになると思います。この私たちには難しいと思われる愛を見つめながらも、そこに近づいていくことが出来るように、今日もまた主の祭壇の前で、一致して祈り続けた地と思います。』

2017年7月2日日曜日

7月2日(日)年間第13主日

今日の「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」というイエスのみことばには、「家族をも含むすべての人を大切にする愛に向って生きなさい」というメッセージが込められています。

後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日のみ言葉は、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」ということばで語られました。
大切な家族を愛することがふさわしくない、とはどういうことなのか?と疑問が感じるのではないでしょうか。
自分の信仰は大丈夫なのか?と考える人もいるかもしれません。

イエスがまず話されたのは、弟子たちを宣教に遣わすにあたって、世の中の厳しさ、そして迫害が起こると予想したイエスが、「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と既に話していたことと関連した話で展開します。み言葉を述べ伝えようと強い使命を持って世の中に出ていくときの弟子たちの心境の中に励ましを与える、そして大切なことは何なのかということを教えようとした、そのような背景もしっかりと理解しておきたいと思います。
先週のみ言葉の中でも「恐れるな」ということばを何度も繰り返したイエスでした。弟子たちに対する教えの結論のように、今日のみ言葉は大きく分けると前半と後半にそれぞれ特徴がみられます。特に前半の話をよく黙想し考えながら、私たちに勧められていることはどういうことなのか、そのことを思い巡らしたいと思います。

「隣人を愛しなさい」「敵をも愛しなさい」と言われたイエスの教えを思い出すとき、何よりも私たちは家族への愛も大切に考えます。でもそういう愛を考えていると、「私よりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない」と言われるイエスのことばに、困惑と慄きを感じてしまうのは少なくないと思います。神の愛も大切である、だけれども自分の愛も大事だとするならば、イエスの教えは私たちにとって、矛盾することになってしまうでしょう。神の愛、人間の愛、自分の愛、どちらも大切だとしたら、優劣が付け難いとしたら、私たちはどちらを取ろうとしているのでしょうか。そこに私たちの驚き困惑もあるかのようです。

まず、宣教に遣わす弟子たちの基本的な姿勢には一体何が一番大切なのか、ということが教えられています。その条件として、第一に「神の愛」が弟子たちに強調されました。神の愛は、自分の愛よりも家族への愛よりも第一であると、イエスは弟子たちに気付かせます。私たちは弟子たちにだけでなく、イエス自身がそうした生き方を私たちに示されたことをよく知っているはずです。イエスが御父から託された使命を果たすために、また私たち一人ひとりを救いへと導くために、イエス自身はどんな生涯をおくられたでしょうか。
イエスは私たちの救いのために、私たちに対する愛のために受難を受け止め、そして十字架で苦しみを受けながらもその死を受け入れました。十字架を担い、従い、その死さえも受け入れたのがイエスご自身であるということ。そのイエスを見つめながら、イエスのことばを理解しようとするとき、厳しいことばではあってもその真意を私たちは理解することが出来るような気がします。
イエスは私たちに問いかけます。「あなたがたはわたしを受け入れるのか?わたしを受け入れないのか?」まさにそのどちらかを選ぶという厳しい選択が迫られる教えが、今日のみ言葉の中にあるわけです。受け入れるのか、受け入れないのか、そのどちらかであって中立は無いというのがイエスの教えです。イエスの真の弟子となって、宣教に出かける弟子の条件としてのクライマックスが今日のお話となっています。そしてその条件が、今日のみ言葉の中でも語られる十字架によって表されるのです。

愛する家族をないがしろにするような教えと、もし受けとめるとすると、私たちは前に進むことが出来なくなってしまいそうです。イエスの教えはこの世のものを追い求めるものではなく、まず第一に神のことを追い求めるようにという教えです。
洗礼を受け、神の子となり、キリストの弟子となった私たちは、何を差し置いても神のことを求めなさいと、そう教えているのと同じだと思います。それはまた、愛を極めるということでもあると言えます。愛を追求しなさい、愛をよく考え、愛に向って生きなさい。愛というのは、自分のことだけを考えるものではないはずです。そう話されているような気がします。愛とは他者のことを考え、他者のために奉仕していくことも愛であるということを話されていると思います。
それは家族のことを抜きにするということではなく、家族をも含むすべての人を大切にする、もっと広く言えば、全人類をも大切にする愛に向っていきなさいということだと思います。イエスはその愛のために、十字架に上られたということです。ですから、神に従うこととは、家族をも愛し、大切にしていくことと同じです。
今日の一見厳しいかのようなこのみ言葉を祈りをもって黙想するとき、時に感じることはたくさん浮かんできます。私自身もその使命を考えると、自分のことではなく、教会のため神のため、人々のためにという想いで生きようとしたはずなのに、どこかでそれよりも自分のことを中心に「自己愛」、自分のことを優先することに向って考えてしまうことがたくさんあります。そういう想いはきっとキリストへの愛を引き離すということかもしれません。自分の思い、自分を優先する心を超えて、イエスの示された愛を生きることがどんなに大切かと分かったつもりでいても、必ずしもそう生きられない現実がここにあるはずです。きっと同じ思いを皆さんも体験していると思います。

イエスは「自分の十字架を担ってわたしに従いなさい」と話されます。
この自分の十字架は、時に困難であることを考えてしまいます。でもこの十字架をもう一つ深めて進めて考えるならば、「自分の責任を担って」という言葉にこの十字架を解釈することも出来るのではないでしょうか。自分に課せられた十字架は、自分の責任を担うということでもあるかのように思います。
この聖堂が建てられて「献堂100年」を昨年お祝いした私たちです。私たち一人ひとりもまた、「次の世代につなぐ」という責任をどう生きているか、そのことも考えてみたいと思います。自分の十字架を背負って、神のため神の愛のため生きるということの重さ。でもそこからきっと、大きな喜びも生まれてくるような気がします。

今日のみ言葉の後半では、小さい者の一人に対してもし支援の手を伸ばすときは、必ずその報いを受けるということが話されます。その話は今日私たちが聞いた第一朗読の列王記とも関連する話になっています。でも、利益を前提として親切にしなさい、ということでは決してありません。平凡で取るに足らない「水一杯」の親切にでさえ、神はそれに報いてくださる、そのことが話されています。何かを頂くことが出来るからこれをするということでは決してありません。

キリストと共に生きようとする私たち一人ひとりが、「神こそ永遠のいのちのことばを持っておられる」そのことを信じて歩むことができますように。
また、教会に対して問題意識を常に持ちながらも弟子たちのように福音を証していくことができますように。聖霊の導きと照らしを祈り求めましょう。

昨日は「福者ペトロ岐部司祭と187殉教者」の記念日になっていました。2006年に福者に上げられた188名の殉教者たちが私たちの教会でお祝いされるようになりました。188名のうち聖職者は、わずか4人でした。他は農業や漁業に従事する貧しい一般の人々でした。日本の教会では九つの教区にわたる殉教者が福者に上げられたということです。新潟から九州まで当時様々な迫害の中にあって、神のために神の愛のためにいのちを捧げた人たちが福者に上げられたということでもあります。私たちもそのような福者の愛、聖人の愛をもう一度心に留めながら、その愛に応えることが出来るように祈りたいと思います。』

2017年6月27日火曜日

6月25日 年間第12主日

日々の生活の中でも、私たちは様々な”恐れ”を感じているのではないでしょうか?
イエスは「恐れるな」と私たちに寄り添ってくださっています。

6月24日(土曜日)に聖堂で行われた平中弓弦さんのオルガンリサイタルには、250名というたくさんの皆様にご来場いただきました。
ありがとうございました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『暦の上では先週の21日、夏至を迎えています。夏至を迎えると日が少しずつ短くなることを考えます。6月もまもなく終わりますが、この週末からは7月を迎えることになります。本格的な夏が北海道にもきたということだと思いますが、半年を過ぎるなんだと思いを深めています。夏が近づくなかで教会の庭にそびえ立っているケヤキ(欅)の木を眺めていると、木々にわたる風も夏だろうと感じています。欅の葉がしっかりとした緑の葉に変わり、濃い緑色に変わっているのも感じます。自然の力、そうしたものがたくましく感じられる、、羨ましくも感じるケヤキの木です。
 それは何故かと言うと、今日のみ言葉から少し思いおこしてみたいです。テレビや新聞の情報から目を放せない状況を送っているのは私だけでしょうか。きっと皆さんの中に毎日そうした情報、ニュースを聞きながら一喜一憂しているのではないかと思います。そこには様々な事件や事故のニュースが伝えられてきます。ミサの祈りでは永遠の命に招くイエスに導かれるように祈りを捧げます。そして。イエスの教えを思いおこしながらその教えを生きようとしています。にもかかわらず、時には平和からほど遠い現実を思いしらされます。今朝のニュースだったと思いますが、中国の四川省で土砂崩れがあって120名ほどの行方不明者が出て、すでに数名の方が救出されたようですが、そういったニュースを今朝見ています。夏が来るとそういった大雨の被害が今年もあるだろうかと、心が留まっていきます。平和からはなかなか遠い私たちの世界ですが、私自身平和を思いおこしながらミサの中で祈りを捧げていますが、自分の小さな過ちを繰り返してしまう、そんな日々を見つめてしまいます。

 今日、皆さんは主日のミサに来られ聖堂に入り、どんな祈り、意向を捧げようとしていますか。皆さんは日常のニュースを聞きながらどんなことに心を向ける毎日でしょうか。今日のみ言葉。「恐れてはならない」「恐れるな」「恐れなさい」と3度、イエスは繰り返し弟子たちに命令します。「恐れてはならない」「恐れるな」「恐れなさい」このみ言葉はイエスが弟子たちに世の中に宣教するために派遣するときの言葉です。私は自分自身が様々な情報に触れて、時に共感して笑みを浮かべ喜び、また悲惨なニュースに胸を痛み悲しんだりしています。
 「恐れるな」という今日のみ言葉をかみしめているうちに、皆さんもきっとご存知だと思いますが、若くして癌で亡くなられた小林麻央さん。そのニュースを皆さんも心に留めていたと思います。若くして癌の告知を受け、乳癌という病に立ち向かって闘病生活を前向きに生きた小林麻央さんのことが報道されていました。報道では力強く人生を歩んだ女性でありたいという思いから、また子ども達にとって強い母でありたいという思いもあったそうです。さらに、
病気の陰に隠れている自分とお別れしたいという決意もあって、この小林さんは幼い二人の子供を案じながら、家族への愛と日々の病状を素直にブログに発表して、同じ病いに苦しむ人たちに大きな勇気を与えていたというニュースでした。重い病気を考えると内にこもりがちな私たちです。でも、この小林さんは悲惨な病気をかかえ痛みに苦しみながらも、明日への希望を見失ないそうな状況にあったとしても、勇気を振り絞って最後まで生き抜いた、そうした姿もニュースで伝えられています。病いの苦しみの中で最後まで愛を見失うことなく、 生きた人として称賛の声が集まっているということです。若くして乳癌という、そして全身にそれが 広がってしまったという状況の中で、二人の幼い子供のことを思いながら、本当に前向きに その病いと戦い続けたというニュースに本当に心が痛みました。どこからそのような力が与えられたのでしょうか。愛があった、そんな思いでそのニュースを受けとめていました。「恐れてはならない」そういう言葉も当てはまる、この病気で戦った小林さんの最後の生き様に接しました。

  今日のこの「恐れてはならない」というみ言葉を黙想していると、もうひとつ私は教皇フランシスコの姿にも及んできました。先週、実話に基づくというフランシスコも映画を観てきました。タイトルは「ローマ法王になる日まで」でした。日頃、私はカトリック新聞をみながら、そして様々に伝えられる教皇様のメッセージを読みながら、これまでの教皇も素晴らしい教皇様でしたが、フランシスコ教皇は本当に貧しい人に思いを寄せて、メッセージを発し続けている。正義のために果敢に立ち向かっていく、そうしたメッセージがいつも強く感じられていました。弱い人たちへの慈しみと愛の言葉が常に溢れているメッセージにいつも驚いていました。その理由は今回映画を観て実感されました。けっして教皇になったからそうされているのではなくて、フランシスコ教皇は若き日から愛と希望への情熱が、今の教皇様にも続いていることなんだということが、映画を観て実感出来ました。教皇様は1960年から70年代、アルゼンチンの軍事政権による圧政の時代、弾圧に負けることなく、苦しむ人たちに協力を惜しみなく捧げて生きておられた。若い司祭で責任ある立場におかれて、そういった弾圧と戦い続けたということが映画でも描かれていました。そうした教皇様の生き様が、今日の教皇様の姿とまったく変わりなく重なっているんだということを確認しました。また、映画の中では悩み苦しむ日々、若き日の教皇様も多くの悩みを抱えながら、社会の人の平和のために、救いのために活動していましたけれども、映画の中では結び目を解くマリア様のシーンがありました。とても印象的でした。ひとつの信心業がそこに見られましたが、無力さ、涙、苦しみからの解放を望む庵としてその信心業は今日、広がりを見せていることにもあるようです。結び目を解く聖母マリア様は、うまくいかない人間関係や心の中のモヤモヤなど、もつれた問題を解きほぐす願いを聞き入れてくださる信心業のようになっています。私たちも心の中にたくさんの結び目をもっているのではないでしょうか。様々な困難、様々な苦しみ、そうしたものが私たちの心の中に結び目として存在していると思います。そうした苦しみや悩みや無力感が、自分ではなかなか解きほぐせないその結び目を、マリア様への祈りをとおして解いてもらう。そういう祈りが映画の中でも紹介されていました。

 教皇様の祈りやメッセージからも、すでに恐れることなく信頼して祈ることの中に、神の力が及んで来るんだという姿勢と信仰を私たちは見つめます。私たちは特に病気をしなくても健康であったとしても恐れがないわけではありません。恐れはいろいろな形で心の中に芽生えています。皆さんの心の中にはどんな恐れが今あるのでしょうか。恥ずかしさも、人からさげすませることも、笑われることも時には私たちの心の中に恐れをよび起こしていきます。また、反対されたり無視されたりしても感情的に恐れが心の中に生じてきます。おどおどして積極的に人と関わることが困難な状況をつくってしまいます。
 今日のイエスの言葉は人に対して、神様に対しても恐れを指摘しています。そして、今日のみ言葉は、その恐れは弟子たちに対する迫害や困難を予想して話されているみ言葉です。でも今、私たちの信仰の中で、自分の心の中を見つめるとき、恐れを抱くという感情の難しい問題にも直面するのではないでしょうか。私たちのその恐れを解いてくださるように、私たちも祈らなければならないと思います。努力しながら、お互いのことを受け入れ、理解しあい赦し合っていくことが、まず何よりも大切だということを、今日のみ言葉は私たちに伝えているようです。
 「恐れるな」イエスは私たちにも語りかけます。神のたくましさ、力強さ、そして神の慈しみの中にある自分たちを思いなさい、考えて見なさい、そう言われているような気がします。
そして、神の愛に守られていること、固い信仰に固められていく自分をもっと感じたいと願います。今日の福音、み言葉の後半に告げられている言葉があります。「私も天の父の前でその人を私の仲間であると言い表す。」雀よりも大切にと、愛を注いでくださる神の愛に応えたいと思います。そして、互いに愛し合う共同体になるためにも、恐れを信頼に変えて歩むことが出来るように聖霊の導きと照らしを祈り求めたいと思います。

【結び目を解く聖母マリアの祈り】

聖母マリア 神の臨在に満ちた方
あなたはご生涯を通じて、まったく謙遜に御父のみ旨を受け入れ 悪魔さえもあなたを罠や誘惑に陥れることはできませんでした。
あなたはすでに息子イエスと結ばれ、私たちのすべてのもつれを 解いてくださり、単純かつ忍耐強く私たちの人生に絡み合った結 び目をどのように解くのかを身をもって示してくださいました。
あなたはいつも私たちの母として、主イエスと私たちを結ぶ絆を 示してくださいます。

聖母マリア 神の母 私たちの母
私たちの人生のもつれ、結び目を母の心で解いてくださるあなた のみ手に委ねます。私たちを苦しみや不安から解放してください。
あなたの取り次ぎによって、あなたの模範に倣うことによって 私たちを悪から解き放ち、私たちと神との交わりを妨げる結び目 を解き、不安、過ち、誘惑、すべてのものから解放してください。
あらゆることのうちに主イエスと出会い、主に心をとめ、兄弟姉 妹のうちに、いつもイエスに仕えることができますように。
アーメン』

2017年6月18日日曜日

キリストの聖体

「キリストの聖体」の祭日を迎えています。
ご聖体をいただき、わたしたちと共同体はキリストとひとつになります。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『聖霊降臨の祝日が終わってから、教会の典礼は「年間の季節」に入りましたが、先週の「三位一体」、そして今日の「キリストの聖体」と祝日が続きます。

聖体は、キリスト教の信仰に欠かすことのできない秘跡であり、ミサに深くつながっています。聖体はミサそのものであるとも言えるような気がします。
私たちが現代、一般的に「ミサ」と言っていることばは、様々な変遷を辿って今日に至っています。もともとは、キリストが亡くなった直後ではイエスの教えや聖書のことばを中心とした「みことばの祭儀」が祈りとしてありました。そしてさらに、最後の晩餐を記念し、イエスとともに食卓をかこむ「感謝の祭儀」であったといわれます。
今日では聖書を中心にした「みことばの祭儀」と、祭壇を中心として最後の晩餐を記念する「感謝の祭儀」が一つになって、一般にミサと言われるようになっています。教会のいのちの源泉であるその典礼をかつて「エウカリスチア」と呼んでいた時代があります。エウカリスチアは聖体祭儀とも言い、聖体を表すことばとして使われていた時代もあります。
教会のカテキズムによると、聖体の秘跡の説明をエウカリスチアである「聖体」によって共同体とともに、洗礼を受けた者はキリストの奉献にあずかることになるとも説明しています。聖体と切り離すことのできない「ミサ」は、かつてはイスラエルの信仰の民にとって忘れることのできない旧約時代の「過ぎ越しの食事」を記念する重要な儀式でした。私たちは聖週間に入ると出エジプト記の聖書朗読をとおして、この過越しの出来事を記憶します。もちろん、今日でもユダヤ教では守るべき大切な儀式として定められているのが過ぎ越しの祭りです。最後の晩餐において制定された十字架の犠牲と復活の記念祭儀にかたどるこのミサは、キリスト者にとってまず何よりも大切にされなければならない信仰上の儀式です。
そこには神のいつくしみ、一致のしるし、愛のきずなを表すキリストを食する宴があります。祭壇を中心とする最後の晩餐のかたどりである食事の席(宴)は、様々な意味を表しています。今日まさに、この宴である主の食卓(祭壇)を中心にして、私たちは賛美と感謝の祈りを捧げ、一つになって祈ります。そして主の祭壇の前でキリストのからだである聖体を受け取ることになります。

今日の三つの朗読も共通したテーマが語られていました。神からの恵みであるパンがテーマになっています。キリストのからだである聖体をいただく私たちにとって、一つのパン、一つのからだについて、考えさせられると思います。

日曜日に教会に来てミサにあずかる皆さん、聖体を受ける私たちですが、時には様々なことを考えさせられることがあります。信者の皆さんにとっては、個別には様々な事情があるにせよ、時には聖体拝領さえしていたら、それでキリスト者としての義務を果たしているかのような、そういう人も見られないわけではありません。私たちにとって教会とは、共同体とは、聖体とはどんなものであるのか、ということをもっと深く私たちは理解をしていかなければと思います。そのような信仰を私たちは生きなければと思います。

聖体をエウカリスチアとも感謝の祭儀ともいうという話をしましたが、キリストの奉献にあずかることの意識も大切にしたいと思います。「キリストの奉献」というと難しい表現になりますが、教会に集まることは、共同体としての交わりを大切にするということとも同じ意味合いだと思います。

キリストとひとつになる聖体を私たちはいただこうとしています。聖書のお話のなかにもありました。キリストのからだにつながれたブドウの枝が私たち一人ひとりである。キリストに、その幹につながらなければ私たちは生きていけない、一つになることはできない。キリストのからだにつながれた共同体として、一致を不十分なままにしておいてはならない、ということだと思います。

今日のみ言葉にもありました。「このパンを食べるものは永遠に生きる」「わたしを食べるものは、終わりの日に復活させる」私たちにそう約束してくださったイエス・キリストに信頼して、祭壇の前に近付いていきましょう。キリストの御体である聖体に感謝し、口で拝領し、心や身体でもキリストのみ旨を表して、大切に自分の信仰を生きることができるようにキリストの聖体の祝日にあたって、私たちは今日新たにその聖体であるキリストに養われ一致して、教会共同体の一員としての役割を果たしていきたいと思います。』

2017年6月11日日曜日

三位一体の主日

わたしたちは、洗礼によって父と子と聖霊の交わりに入り、キリストのしるしを受け、真の弟子となりました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は三位一体の祝日を迎えています。カトリック教会の中では聖人となったたくさんの教父がいます。そして、教父たちによっては、伝統としてその教えを教会に伝え、教会はその教えを大切に守ってきています。信仰の教えはそうした教父たちによって伝えられ、教会はその信仰に根ざして今、大切に信仰を生きています。

 今日は一人の教父、聖人アタナシオの話しを少しさせていただきます。聖人アタナシオはこのようなことを話されています。「この信仰から離れ去る人はキリスト者ではなく、その名に値するものでもありません。」教父アタナシオは「聖にして三位一体がある。」と、そういう教えをされた方です。今日は三位一体について、聖人からの教えを皆さんに紹介しますが、父と子と聖霊が一体であり、神であるということは、その内には異質で外的な混合物は何もない。教父はそのように話します。創造物と被造物からなるものでもない。三位一体の神、それはまったく自己同一で、本性上は不可分で分かつことが出来るものでない。その能力は唯一である。こう話しておられます。事実、父は御言葉が人となったという、御子イエスをとおして、聖霊においてあらゆることをなさいました。実際、唯一の神は父として、その源として、すべてのものの上にある。御言葉をとおして、すべてのものをとおして存在し、聖霊においてすべてのものの縁におられる。このような表現は聖パウロもまた話されます。聖パウロは聖書の中で、賜物はいろいろあるという表現をとりました。すべての場合に、すべてのことをなさるのは同じ神である。それは聖霊によって一人ひとりに分け与えられる、父から御言葉、御子をとおしてで与えられるとその賜物についても話されています。

  私たちが思いおこすのは葡萄の木に結ばれた枝として、そのひとつひとつの枝は それぞれの賜物を持っているように、私たち一人ひとりもそれぞれの賜物をいただいて、キリストに繋がっている。このような表現をパウロはしています。父なる神が御言葉とともに存在することは、イエス自身が父と私とはその人のところに行き、いっしょに住むという言葉で表現されました。父なる神、遣わされた御子である私はひとつである。同じである。イエス自身もそう話されました。光のあるところにその輝きもある。また、輝きのあるところに、その活動とその輝きの賜物もあるんだということでしょう。

 私たちはミサの中で 何度も何度も繰り返し繰り返し祈ります。主イエス・キリストの恵み 神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。あなたがたとともにありますように。ミサの中で何ども繰り返し唱えられるこの祈りの言葉の中にも三位一体の神が表されています。
 三位一体を言葉で表そうとしても比喩でしか表現出来ません。比喩もいろいろなたとえ話しがこれまで私たちに聞かされます。皆さんも「三位一体」のたとえ、比喩をいろいろ聴いておられると思います。そのひとつは三つ葉のクローバーで説明されることがあったかと思います。一本の木から伸びて3枚の葉を持つ三つ葉のクローバー。クローバーは三つ葉であっても成長の過程で様々であることもありますが、健康で育った三つ葉の葉はどれを見ても区別がつかないかたちをしていると思います。その三つ葉の葉をひとつひとつ、父と子と聖霊にあてて説明する三位一体の話しがあります。どれも神そのものである。でも神そのものの中に一枚一枚の葉が三つあって、父である葉、子である葉、聖霊なる葉、三位の位格を三つの葉で表していることだと思います。
  三角形で説明する話しも私がしたことがあります。正三角形を想像してみてください。三角形そのものは神そのものだと理解し、三角形の形の中ではそれぞれ3つの角があります。正三角形であればどこから見ても同じ形をしていると思いますが、一つ一つの角に父と子と聖霊の三位、位格を表すということで、神である三角形だけれども、ひとつの角をとるとそれぞれ父である神、子である神、聖霊である神を考えることが出来る。その働きを見ることが出来るということだと思います。
  ローソクで説明されるということを、今回シスターから手紙をいただいて、初めてそのことを知りました。ローソクでどのように説明されているかなとインターネットで調べて見ましたが、ローソクの説明は三角形よりも、三つ葉のクローバーよりも、なかなか理解しがたい説明になっていました。ローソクのたとえでもいくつか説明があるので、1本のローソクで三位一体を表すの説明も見られました。1本のローソクの説明はロウ自体が父である神を表し、芯がイエスを表し、光が聖霊を表す、そんな説明もされていました。3本のローソクで説明する内容もありましたが、私にはいまいちピンとこないものでした。いろんな形で神様を三位一体を紹介するために昔から工夫をしてきたひとつの現れかなと考えます。

  今回シスターからいただいた手紙から、私はひとつ初めて知りました。三位一体の神秘は信仰を持たない人にはなかなか理解してもらうには難しい。それを完全に理解することは神学者であっても、その大家(たいか)であっても不可能といわれるくらい、三位一体の神秘を理解することは難しいと話されています。そして、シスターは自分の思いを話されていました。三位一体は父と子と聖霊が一つの神であると教えている以上に、人間には限界があることを教えているのではないでしょうかと話されています。
  どういうことでしょうか。何でも知りたい。何でも知ろうとする。私たちは理解しようとしています。そしていつのまにか、分かってしまっているつもりであることも何度もあるようです。でもそれは実は神秘の一部を見たにすぎない。神秘の一部を理解したにすぎない。シスターはそのことを意識しなければならないでしょうと話しをされました。神の神秘は宇宙以上のものではないでしょうか。それなのにその一部を知っただけで、私たち日本人は分かったつもりになってしまう。あーだ、こーだという私たちは人間だとシスターは話しておられます。限界は目の前にあるということを、神様は三位一体の神秘をとおして話されているんだ、シスターはそのように受けとめているようです。

  シスターのメッセージの少しを私はこころに留めております。私たちもそういう思いで一生懸命知ろうと理解しようとし、理解したことで全部を知ったかのように、もしかすると思い上がる心もそこから始まっているような気がします。シスターは話されます。神様は何でも良く理解している人間を愛されるのではない。物わかりが悪くても、できの悪い私であっても、また頑固でどうしようもない私を愛して大切にしてくださっている。そういう神の愛に心を受け、その神を信じて生きることのほうが、大切ではないでしょうか。シスターはそう話されているような気がします。

  洗礼によって父と子と聖霊の交わりに入り、私たちはキリストのしるしを受け、そして三位一体の神に奉献されました。キリストの真の弟子に、三位一体の神によって、洗礼をいただくことによって私たちはキリストの弟子にされました。私たちも弟子たちがかつてそうであったように、なかなか主イエスを理解出来ずに、またその教えを理解出来ずに、とんでもない発言を繰り返しました。その度に戒められることも良くありました。神の愛が私たちに手を差し伸べるときも、私たちはどこかでエゴイズムと欲望にあふれたままで存在しています。でもそうした私たちの存在にもかかわらず見捨てることなく手を差しのべてくるのが神の真の心ではないでしょうか。
 今日の集会祈願の中でもそういう祈りがなされています。私たちを永遠の御国に招くために御子は私たちのもとに遣わされた。その御子は私たちを永遠のいのちに導くために、神の国を示し神の愛を示し、掟を与えられて希望を生きるよう導いてくださいました。三位一体の祝日を迎えて、そういう神に出会ったこと、そういう神を信ずる恵みを生きられることをしみじみと感謝して今日のミサに与りたいと思います。』


御ミサの後、春の大掃除を行いました。
聖堂とカテドラルホールの壁、窓、照明をきれい拭きました。大掃除の後はD地区の皆さんがご用意してくださった豚汁をいただきました。

教会のすぐ隣では、新しい司教館の工事が進んでいます。地下の掘削工事中です。


2017年6月4日日曜日

6月4日(日)聖霊降臨の主日

最後の晩餐でイエスは弟子たちに「聖霊を遣わす」と約束されました。
主の復活から50日目にあたる今日、私たちは聖霊降臨をお祝いします。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日は少し肌寒いのですが、季節としては風も爽やか日差しも心地よく感じる初夏を迎える6月となりました。2週続けて週末の天候には恵まれませんでしたが、子供たちの元気な声が聞こえてくる運動会の季節でもあります。

さて、今日は「聖霊降臨」の祝日を迎えています。
今日も聖書をとおして、聖霊降臨の出来事が私たちに告げられました。
聖書によると旧約時代に信仰の歴史を記念する大切な祭り、それは「過越し祭」でした。そして過越し祭から50日目にあたる「七週の祭り」というのも大きなお祭りであったようです。その「七週の祭り」の日に聖霊降臨の出来事があったと、聖書は記しています。「神の偉大な業である不思議な出来事がこの日に起こった。」
新約聖書では「使徒行録」によって、主イエスの復活から七週間、その間、イエスは弟子たちに復活した姿を現し、40日間は共にいたと記されています。
イエスが復活すること、そして聖霊を遣わすことは、既に弟子たちに何度も繰り返し話されていたことでした。
最後の晩餐で弟子たちとともにいたとき、イエスは弟子たちに弁護者(聖霊)を遣わすと話されています。地上の生活を終えて父なる神のもとに行った時には、「聖霊を遣わす」という約束をしていました。私たちの教会の典礼は、主の復活から50日目にあたる今日、聖霊降臨を毎年祝っているわけです。

復活の主イエスが弟子たちと共にいてくださったのは、聖霊降臨までの新しい出発の準備期間でもあったと思われます。イエスのこの地上での活動の中では、たくさんの不思議な出来事が起こっています。また、神の国について、神の愛について、たくさん話されています。イエスは弟子たちと共にいてくださったのですが、御父からの使命を全て成し遂げられた時、天に昇られます。そして、父のもとに帰って、イエスを信じる人々に聖霊を与えてくださった。弟子たちにそのことを告げられた時、イエス自身が弟子たちの心の中を読み取って話しています。弟子たちは悲しみに満たされるのですが、「わたしが去って行くのは、あなた方のためになる」とこのように既に述べていました。
その聖霊(弁護者)は、「わたしが去って行かなければ、あなた方のところに来ない」とも言われています。聖書の言葉を見ますと、「あなた方は、わたしが神のもとから出てきたことを信じた」、「あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じています」という宣言のもとで、イエスはそう話されました。
また、イエスは、「わたしは一人ではなく、御父が共にいてくださる」とそう話されながら、「あなた方がわたしの内におり、わたしもあなた方の内にいる」とこう話し、わたしがこの世から去って御父と一緒であるように、あなた方もわたしを信じることによって、わたしと一つである、というようにも話され、永遠にいつの世においても、わたしはあなた方と共にいるという約束をしてくださいました。
そう言うイエスが私たちに残した教えは、愛の掟です。大切な教えとして、「大きな愛」についても触れられていました。小さな愛はどんな愛でしょうか?そして大きな愛というのはどんなことを言っているのでしょうか?それは聖書ではっきりと示されました。
イエスはこのように言っていました。「互いに愛し合いなさい。友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語っています。小さな愛、大きな愛があるとすれば、この大きな愛は友のために自分のいのちを捨てることであると、はっきり話されています。私たちは大きな愛を目標にして進んでいかなければならないと思いますが、なかなかそういう道を歩むことは難しいように思います。そのためにもイエスは、聖霊をおくってくださっていると思います。
乾いた小麦粉だけでは、パンは作れません。天からの水が無ければ、私たちはキリストにおいて一つになることは出来ないようです。水はそういう意味では、大きな恵みそのものでもあります。私たちの体は洗礼の水によって、そして心は霊によって、汚れた心を清め、そして荒みを潤し、私たちは洗礼の恵みをいただき、新しい命をいただきました。聖霊はそういう働き、恵みを私たちにもたらしてくださっています。私たちの洗礼においても感謝しなければならないと思います。
さわやかな風のように聖霊の恵みをいただいているはずです。限りない愛のそよ風として、その愛を私たちは生きなければなりません。小さな愛に留まることなく、大きな愛になるように、そのイエスが示された愛、イエスがおくられている愛を隣人と私たちの周りに留められるように祈らなければと思います。

愛の思い出があります。皆さんも愛に感動したことがきっとあると思います。私も思い出の一つに愛の感動を忘れることがありません。それは、無垢な愛を持つ幼稚園児の姿をとおして感動したことでした。
1973年ですから今から45年前、私が25歳の時に神学生になった5月頃の出来事です。当時は神学校に入って黙想会から神学校生活が始まることになっていました。黙想会は埼玉県大宮市にある修道院で行われることになりました。その黙想会も普通の黙想会とは違って、沈黙の黙想会でしたから、初めて出会う神学校の先輩達とも十分に言葉を交わすことの出来ない生活からのスタートでした。指導する神父様は個別の面接の時に私のことを心配してくださって、誰とも話をしない1週間のことを大変気遣ってくださいました。
そのような生活が始まったある日、休憩時間に散歩に出ました。修道院が運営する幼稚園がすぐそばにあって、外に出ると元気な子供たちの運動会の練習する姿が目に飛び込んできました。運動場で一生懸命練習する子供たちの姿を眺めていました。徒競走の練習であったと記憶しています。子供たちは線が引かれたコースをゴールを目指して一生懸命走っていましたが、子供たちの中には、ゴール直前まで一位になって走っていた子供でさえも、そのままゴールを駆け抜けることなく、ゴールを前にして、遅れてくる子供達に手を伸ばして待っていて、そして遅れてきた子供たちと一緒に手をつないでゴールに入る姿が見られました。子供たちは一位になることを目指して走っているのではなくて、一緒に走ることに真剣でした。手をつないで一緒にゴールすることに喜びを感じている、そんな姿に感じられました。友と一緒に走ることの喜び、一緒であることの方が大きな喜びであったと思える子供たちの姿、子供たちの心の中の優しさと愛に、今思い出しても新たな感動が生まれます。
私たちの愛には、我欲がたくさん入ってしまっています。「敵をも愛しなさい」と言うイエスの教えは、おのれを捨て友のために捧げる自分が、大きな愛になるということを示しています。イエスが示された愛を、私たちはついつい忘れてしまっているような気がします。人のためと、考えたり、言葉では話していても、私の愛は私の満足、私が先にあっての愛を一生懸命生きようとしているような気がします。

今週のカトリック新聞では、教皇様のローマの小教区での説教の一節が記事として掲載されていますが、とても驚くようなタイトルが大きく載っています。
それは、「陰口は分裂招く罪」
記事の中では、「教会に起こっている罪は、互いに悪口を言い合い、裏切ることで、それは共同体を分裂させるだけでなく、神を求めて訪ねてくる人さえも遠ざけてしまう」とあります。そして、「私たちが互いに石を投げ合っているようなものです。それで喜ぶのは悪魔です。」と教皇様は心を痛めておられます。ローマの教会でも日本の教会でも、同じような些細な出来事が人の心を悩ませているのではないかと思います。この記事の中では、教会の一員として洗礼を受けているキリスト者の全員が聖霊の賜物を受けている、と強調する箇所もありました。

聖霊降臨。私たちがこの聖霊によってもたらされているものを、もう一度しっかりと考えて、その聖霊の恵みに応えていきたいと願います。
聖霊降臨を祝う今日、聖なるこの北一条教会に集まっている私たちの上に聖霊の働きを願い、自分の心の欲を越えて、イエスの限りない近付くことができるようにこのミサをとおして祈りましょう。』

2017年5月29日月曜日

5月28日(日)主の昇天

御復活から40日が経ち、いよいよ天に昇られるという「主の昇天」を今日、私たちはお祝いします。

札幌はライラックの花が満開です。ライラックは「札幌市の木」に指定されています。
札幌の開拓期にアメリカ人女性 サラ・クララ・スミスさんが持ち込んだそうです。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日も雨上がりの中、狭くなった駐車場はどんな様子かなとミサの直前まで見ていましたら、駐車場を越えて司教館のライラックの花がやはり目に飛び込んできます。ピンクと白いライラックの花がもう満開で、もうそろそろピークを越えたかのように見えています。工事が始まり塀が出来ていますので、かつては緑の芝が目に飛び込んでいましたが、今は教会の前のケヤキの緑だけが目につくようになって、ライラックの花はまだ見えていますが、来年は見事に成長したライラックはどうなるだろうと、そんなことを考えながら最近は外を良く見回しています。皆さんも見納めの司教館の庭を良く眺めておいてほしいなと思います。

 さて、今日は主の昇天の祝日を迎えております。復活したイエスは弟子たちに現れ、神の国について話しをしておられました。復活してから40日が経って、いよいよ天に昇られるという「主の昇天」を今日、私たちは祝います。主の復活を信じる私たちには、新しい希望が生まれました。でも、現実の生活の中では悩みや苦しみがたくさんあります。病気や人間関係においても途方にくれることがあります。そういう中で私たちは信仰を思いおこし、苦しみの十字架で死んだはずの復活の主イエスに出会うことによって、新しい朝を迎える日々が続きます。
新しい朝を迎えると今日もそうですが、雨があがって朝日が降り注ぎます。太陽が昇ります。暗闇が終わるように明るい希望の一日が始まります。闇が終わるように私たちも信仰において希望をしっかりと持つならば、たとえ現実の生活の中に苦しみがあったとしても、苦難に押しつぶされることはないと思います。
 イエスと真に出会って復活を信じることによって、私たちは希望を持ち続けることができます。復活の主イエスは、受難と復活によってご自分の果たすべき使命を終えられて、その完成の姿を昇天というかたちで示されました。私たちに神の生命を与えるというその御業は、弟子たちに受け継がれ、そしてすべての時代の人々がその神の生命に与るように召されている、そのようにまた生きなさいと、イエスは弟子たちに最後の最後、話されています。

 キリストの昇天は、福音記者それぞれが聖書で述べています。感覚的にも、視覚的にも私たちの経験をはるかに超える神秘がそこにありました。その昇天は誰もが想像さえ出来なかった事実でした。私たちは今、受け継いだ信仰において注意深くその神秘の深遠の意味を常に探求しなければと思います。教会の信仰宣言…ニケア・コンスタンチノープル信条においてもこの主の昇天の出来事が語られます。信仰宣言の言葉は天に昇って父の右の座についておられますとの表現になっています。聖書では黙示録でもイエスは王座についておられるという表現がなされています。実際、主の昇天に関する詳しい 箇所は今日私たちが聞いた第一朗読に書かれています。そして、その叙述は淡々としたものとして描かれています。

  旧約の時代から預言者をとおしてそのことが暗示されていました。 神の権限につきものの雲が現れ 、その情景を説明するかのように、イエス様の昇天の時には二人の天使の声でキリストが天に昇られたということを説明します。イエスの復活を目の当たりにして信じていた弟子でした。そして、イエスとの最後の出会いは、イエスが指示されたとおりのガリラヤの山です。そのガリラヤで最後の出会いをして、弟子たちは派遣の言葉をいただきました。イエスは弟子たちに最後の指示をなされる時、権能を示され、「すべての人を弟子にしなさい。洗礼を授け私が命じた教えを守らせなさい。」と話します。さらに「私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる。」と約束してくださいました。マタイの福音28章は、その派遣の言葉、今日私たちが聴いた言葉で閉じようとしています。私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる。マタイの福音のイエスの最後の言葉として告げられたこの宣言、言葉。「いつもあなたがたとともにいる」という言葉は、実はマタイ福音書の1章の中でも表現されている言葉でした。状況は違いますが、いつもあなたがたとともにいるという言葉は、マタイ福音書の第1章の中にもすでに描かれたということは、福音の秘儀ということはそこに感じられます。どういう状況でそのとき語られていたでしょうか。皆さんは思いおこすことができるでしょうか。マタイ福音書の最初、第1章ですから、イエスがまだ産まれる前の出来事がそこに描かれています。マリア様が天使によって身ごもったというお知らせをとおした情景の中に、いつもあなたがたともにいるという言葉が示されていました。誕生を知らせる天使のお告げの場面です。その第一章の聖書の言葉はこのように表現されていました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルとよばれる。」皆さんも思いおこす言葉だと思います。その名はインマヌエルとよばれる。このインマヌエル、この言葉は神がわれわれとともにおられるという意味の説明が付けられているのです。イエスが産まれる前からそのイエスという人は、神の子は私たちを救うために御父から贈られこの世に誕生する人。そしてその方はわれわれとともにあるという言葉において、もうすでにマリア様のおなかに誕生したときに告げられていたということです。そのことを気付かされるだけでも、聖書の神秘が、深遠な意味がちりばめられていたということに驚きを感じられます。

  でも、実際私たちの現実に目を向けると感動ばかりはしていられない状況が見えてきます。昔も今も私たちの現実の中にはいつも不完全なことが起こっています。それもまた驚きになります。今日の短い朗読の中でこ場に及んでも、弟子たちのなかに「疑う者がいた。」という 表現がありました。復活の主と出会って40日間過ごしていたにもかかわらず、そして最後の最後、イエスと出会い、主の昇天の姿を見送る弟子たちの中に「まだ疑う者がいた。」という表現が聖書でなされているということ。ここにも驚きを感じます
  弟子たちであっても、復活の主と出会っていても、その主から直接声を聞き、教えを受けているにもかかわらず、まだ疑う者がいたという表現がなされている。私はそのことにもまた驚きを感じます。

  でもよくよく考えてみると、イエスを見ても信じ切れない弟子の姿は、かたくなで変わろうとしない私自身の姿に重なってくる気がします。私はどこまで信じているだろうか。どこまで復活の信仰を持っているのだろうか。私もどこかで弟子たちと同じように疑う気持ちがまったく消えていない、そんな思いもいたします。それはきっと私たち自身の姿でもないでしょうか。口では信じます、悔い改めます、と言いながら生き方を改めること、努力をしない生ぬるい生き方、生活を続けているのが私たちではないでしょうか。でもそんないたらない私たち、かたくなな私にも主イエスは呼びかけます。呼びかけてくださっています。行きなさい、み言葉を伝えるために。復活の主を証しするために。いたらない弱い私たちにも主は呼びかけ、そして私たちと共にいてくださいます。弟子たちだけでなく私たちにも、これからずっと共にいてくださると約束してくださった主に信頼して、キリストと一致し、力強く歩むことが出来るように、今日もまた祈りを捧げましょう。

  そして5月の聖母月、残りが少なくなりました。マリア様をとおして、この世に救い主を贈ってくださった御父に目を向けます。御父は、「いつもあなたがたとともにいる」というイエスに出会う恵みを、マリア様をとおして私たちに与えてくださってもいます。聖母月、マリア様にも感謝の祈りを心からする日々でもありたいと思います。』