2016年12月4日日曜日

待降節第2主日

待降節も2週目に入り、アドベントクランツの2本目のローソクにも火が灯されました。

「悔い改めよ」と呼び掛ける洗礼者ヨハネの声を聞きながら、待降節を生きることができるように祈りましょう。

聖堂に飾り付けられた馬小屋です。



後藤神父様のお説教をご紹介します。



『待降節も2週目に入り、アドベントクランツの2本目のローソクにも火が灯されました。このローソクの火を見ていると、クリスマスが近づいてくることが実感されます。
12月に入り、気忙しい季節となりましたが、皆さんはどのような気持ちでこの12月を迎えているでしょうか?今日の福音の中でも「悔い改め」という言葉が出てきていますが、昨日は真駒内教会で共同回心式が行われていました。昨日は北11条教会でも「虹の会」の集いがあったそうですし、こちらの教会ではカリタス家庭支援センターのチャリティコンサートが行われ、他の教会からも沢山の方がみえていました。真駒内教会の近藤神父様は昨日の共同回心式の参加者の少なさを嘆いておられましたが、他の行事と重なったことを話すと信者さんたちの忙しさも少し理解されたようでした。いずれにしても、共同回心式は待降節のなかにあって、私たちが準備をしていく上で、とても大切な儀式になっています。今週の土曜日は山鼻教会で、来週は北26条教会でそれぞれ共同回心式が行われることになっています。私たちの教会では共同回心式の計画はありませんでしたが、信徒の一人一人が回心のひとときを過ごすことができるように、個人告解はいつでもできますので、私に声掛けをして、赦しの秘跡や恵みを受けることを改めてお伝えしておきます。

さて、昨日の12月4日はフランシスコ・ザビエルの祝日を迎えていましたが、皆さんはそのことを思い起こしていたでしょうか。私たち日本の教会にとってフランシスコ・ザビエルは日本宣教の保護者として、私たち日本人信徒の信仰の上では切っても切れないご縁のある方です。今日は、「宣教地司祭育成の日・献金」ですが、今年6月の定例司教総会で「宣教地召命促進の日」と名称が変更されました。日本ではザビエルを始め、海外から多くの宣教師が来て、キリスト教の信仰をもたらしました。現在の信徒数に対して、司祭の数がとやかく言われる時代が来ました。司祭が少なくなったという話もよく聞く話です。キリストを知らない人の数を考えると、もっと司祭がいてもいいと考えることもできますが、急に増える状況ではありません。そういう意味では、いつも言われているように、私たち一人一人が宣教の使命を担っているということが益々大切になると思います。そのような意味でも、この日の献金はローマに送られて全世界の宣教地の司祭育成のために使われることになりますので、改めてご協力をお願いします。

「宣教」について少しお話をしたいと思います。
私たち日本の国では今やクリスマスは、社会行事になったように思えます。嬉しい反面、ちょっとそれでいいのかな、という思いもあります。美味しいケーキはクリスマスに用意されますけれど、そこに神様がおられるのか、イエス・キリストがそこにおられるのか、ということを少し考えてみる必要がありそうです。クリスマスを何のために祝っているのか?迎えているのか?
かつて私はお説教でも触れましたが、私は函館江差教会の出身ですけれど、江差教会での降誕祭の夜のミサで、信者さんが帰るときに私は何人かの人たちの送り迎えをしていたのですが、夜中の人の出入りを不審に思ったのでしょうか、警察が教会の前に来ていて尋ねてきたので、「今日はクリスマスなので」と答えたところ、「え?クリスマスは教会と関係があるんですか?」と言われ、私の方がとてもびっくりしたことがあります。世の中はそういうものなのかなと思っています。クリスマスは一般的に誰もがお祝いするようになってきていますが、本当のクリスマスになっていないということがいえるのだと思います。イエス・キリストが不在のクリスマスというものを私たちはどのように受け止めればいいのでしょうか?
私たち一人一人もクリスマスを祝うということの本当の意味をもっと深く心に留めて、周囲の人と話す機会が出来るならば、そこから私たちの福音宣教も可能になっていくことだと思います。本当に意味のクリスマスを伝えるということだけでも大きな宣教になるのではないかと思います。

今日の福音でも、宣教する洗礼者ヨハネの姿が示されました。洗礼者ヨハネは宣教活動を開始するに当たってユダヤの荒れ野に赴いています。ちなみにイエス・キリストが公生活を始めて宣教を開始されたのはガリラヤでした。宣教の始まり、それは決して人が大勢いる都会であると考える必要はないと思います。大切なことは、一人一人の心に語りかけられることが大切ではないでしょうか。どんな人の心にも神様の訪れが近づいているということを伝えることだと思います。

洗礼者ヨハネは「悔い改めよ!」という言葉から始めています。最初から神の言葉を語り伝えているのではなく、一人一人の心を見つめさせ、回心を促し、神に心を向けさせていく洗礼者ヨハネに私たちも習いたいと思います。
まず心を洗われること、そして新しい生き方があるのだということを知ってもらい、そこから神への道、神に至る道が始まっていくということでもあるということ。
「回心せよ!」との洗礼者ヨハネの声は、私たち現代社会にも響いてくると思います。それは欲望に取りつかれ争いの絶えない社会が今日あり、また人間性を無視する犯罪が毎日のように起こる私たちの社会でもあります。さらには食料不足で命を失くす世界もある、命の軽視で罪のない幼い子供の命が奪われる事件が絶えることのない現実があり、心を痛める私たちですが、時には出来ることから始めなければという思いも強くしています。でもそのような思いはなかなか現実の行動に繋げることは簡単ではありません。
待降節を迎えて、まず私たちは自分自身の心を振り返り、自分自身を深く見つめ、回心することから始めないとならないようです。
人から受け入れられないことは、誰にもつらいことです。人間関係で思いや心に、何か食い違いを起こしていることも、つらいことではないでしょうか。何を始めなければならないのか、何を改めなければならないのか、それが回心につながってくることではないかと思います。
「キリストに向って、同じ思いを抱かせてくださいますように」と、思いや心の深いところで一つになることは、希望の光や愛の心をもたらすはずです。

洗礼者ヨハネの声を聞きながら、待降節を生きることができるように祈りましょう。』