2016年11月13日日曜日

年間第33主日 「いつくしみの特別聖年閉幕式」

昨年の12月8日から始まった「いつくしみの特別聖年」が11月20日に閉幕します。
それに先立って地方教会では年間第33主日の11月13日に特別聖年の閉幕式が行われました。
札幌司教区のカテドラルである北一条教会では、この日、勝谷太治司教様の司式により閉幕式が行われ、聖年の間に神様が与えてくださった霊的たまもののために感謝の祈りを捧げました。

「いつくしみの特別聖年」の公式賛歌”いつくしみ深く 御父のように!(Misericordes sicut Pater!)
”が謳われるなか、主日ミサが始まり、そして感謝のうちに閉幕しました。

【今日の共同体のための共同祈願】
今日、わたしたちは「いつくしみの特別聖年」の閉幕式を迎えました。
Misericordes(ミゼリコルデス)とは、神様の愛、ゆるし、あわれみ、いつくしみを表している言葉です。この特別聖年の間、それぞれが祈りや黙想、また、さまざまなところで御父の豊かな恵みを、導きを体験させていただきながら過ごさせていただきました。あわれみ深く、いつくしみ溢れる御父への信頼を忘れず、過ごすことができますように。






勝谷司教様のお説教ご紹介します。


『来週で「王であるキリスト」、すなわち1年の暦が締めくくられます。いつもこの時期は終末期を迎えることの聖書が読まれるわけですが 、今年はそれに併せて「いつくしみも特別聖年」の閉幕も宣言されます。来週をもって聖年が終わるわけですが、それぞれの地方の教会はその前の週、すなわち今日、聖年の扉を閉める式を行うように通達が出ています。全世界の教会は今日をもってこの聖年の扉が閉じられるわけです。

 今日の福音の中にも出てきていますが、この世の終わりの時に訪れる様々な恐ろしい現象、
これは実は世の終わりのことを指していると言うよりも、福音書が書かれた当時、常にこのような出来事が起こり、そして激しい迫害の中にあったわけです。その少し前のページ、「使徒パウロのテサロニケの教会への手紙」の中で、働かないで生活している人がいる、ちょっと理解出来ないかもしれません。この「働きたくないものは食べてはならない」。最近は聴かなくなりました日本語のことわざのように「働かざるもの、食うべからず。」これは日本のことわざでではなくて、この聖書のこの言葉が案外知られていない。
 何故このようなことを言っているかと言うと、キリストはすぐ来ると思われていて、世の終わりもすぐやって来る。だから、もう働く必要はない。そういうような意味で、何もせずにただ世の終わりを待つ人たちが結構いたようです。それに対して使徒パウロは、他の手紙でも言ってますが、日常のありのままの自分の生活をそのまま続けなさいと言っています。 そして、世の終わり、再臨の時を待ちなさい、特別なことをするのではなくて、今与えられている努めをただ誠実に果たしていきなさい。ただし、そのかいから離れ自堕落な生活をしている人は 厳しい警告の言葉も向けられているのです。いつの時代にも、このような出来事が起こるとき不安になった人は何かに縋ろうとします。自分たちを変えてくれる、あるいは頼りになる、この世の力というものに縋りたくなる。多くの場合は新興宗教のような形で、これさえ信じていれば御利益を得られるということを主張するものが、最近の世界の流れを見るならば、政治的な力が、だれも予想しなかったことが表しているのは、人々が理性的な判断よりも感情に訴えかける、自分たちの利益を優先して考えてくれる人をリーダーとしてたててしまおうとする。ヨーロッパにおいてもそうですし、世界的にそのような流れが進んでいるときに、私たちはどのようにしてこの世界を見据え、自分なりの生き方をしっかり選びとっていくべきか、今、難しい時に私たちは立たされていえるかもしれません。

 明日から日韓司教交流会が行われ、一週間韓国に行ってきますが、移動できるのかが心配です。教皇様来られたときは(デモではなかったが)30万人と言われましたが、非公式には5~60万人も集まったと言われましたが、それに匹敵するような人々がソウルの広場を埋め尽くしてデモを行っています。この混乱中で、韓国社会を今、世界に対して日本を含める東アジアに対して、カルトの脅威に対して警告を発しています。(この後、司教様はカルト教団についてのカトリック新聞の記事を引用し注意を促しました。)

 私たちは信仰を固く持ってそこに留まる。聖書の中では忍耐していなさいという言葉がありますが、このような混乱した社会情勢や宗教状況の中で、私たちがしっかりよってたつべきところを持つことはとても大切なことです。それがけっして排他主義的な自分さえ良ければよいというようなところへ私たちを導くのではなくて、むしろ平和で共存する豊かな社会を目指すようなものへと私たちを導いてくれるもの、それをしっかり識別して私たちは生活していく必要があると思います。
                                                                           
 同じカトリック新聞の中で、教皇様は関心の問題のひとつは移民の問題です。アメリカでは移民政策を厳しい形で排除しようと、政策を転換するというニュースが今日も報じられていました。しかし教皇様はそうではなくて、必要なのは壁を作ることではなくて、橋をつくることだと強調しておられました。
 そして、現代に生きるキリスト者にとっての新しい幸い 、六つの幸いを示しておられます。山上の垂訓では八つの幸いですが、現代に生きるキリスト者にとっての六つの幸い。
 ①他者から受けた害悪を信仰によって耐え忍び、相手を心からゆるす人は幸い
 ②見捨てられ、脇に追いやられた人の目を見つめ、その人たちに寄り添う人は幸い
 ③あらゆる人に神を見いだし、他の人たちも同じように主を見いだすことができるように力  を尽くす人は幸い
 ④ともに暮らす家を守り、大切にする人は幸い
 ⑤自分だけの安楽を他の人のために捨てる人は幸い
 ⑥キリスト信者の間の完全な一致のために祈り、働く人は幸い

 特に見捨てられ、脇に追いやられた人の目を見つめ、その人たちに寄り添う人は幸いという言葉は、単に観念的に社会の隅に追いやられた、小さくされた人たちに寄り添うという観念的なことを言っているのではなく、その人たちの目を見つめるという表現は、理屈ではなくて実際に行動を通して出会う、触れあう具体的に関わりを持つこと、そういうことの大切さをこの一言で表現しておられると、私は感銘を受けています。見捨てられ、脇に追いやられた人の目を見つめ、その人たちに寄り添う人は幸い。

 頭でっかちにこの世の状況を判断し、評論家のようにそれを論評するのではなくて、具体的に私たちは行動を持ってこの世界の苦しんでいる人や私たちと連帯すべき人たちと具体的に関わっていく。これは特別聖年の幕は閉じられますが、教皇様が示されようとした「神のいつくしみ」。これは私たちに対するいつくしみでもありますが、教会が世界に対して神のいつくしみを示すことになるようにという強い望みが聖年に託されたわけですから、今閉じるということは、それで終わるのではなくて、今これからこれを具体的に取り組んでいく、その始まりの時に私たちは立たされているということを、私たちはしっかりと受けとめていきたいと思います。』