2016年11月6日日曜日

年間第32主日

今日の福音で、イエスはサドカイ派からの悪意ある問い掛けを退けます。

ミサの中で、今年7月に誕生した赤ちゃんの洗礼式が行われました。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『イエスの時代のユダヤ教の中でも熱心な教派を挙げるとその代表なグループは、ファリサイ派とサドカイ派です。その一つのサドカイ派の人たちがイエスを問い詰めるというのが今日の話となっています。
両者はことあるごとにイエスの言葉尻を捉えて、罠にかけようとしていたのですが、今日の話の直前に聖書では共観福音書に共通する内容でファリサイ派が「皇帝への税金」で腹黒い質問をして、律法に叶っているか?否か?を問いただすのですが、見事イエスに敗北することになってしまったのです。ファリサイ派の敗北に喜んだのはサドカイ派の人たちでした。つまり、二つの派閥がそれぞれイエスに質問を仕掛けていたという背景があるのです。
そこで、今度は自分たちの方からイエスに勝負を挑もうと進み出たのがサドカイ派で、彼らはこれまで自分たちの主張を固く守り、ファリサイ派と昔から議論し続けている「復活」についての論争があり、復活を拒否する立場であったことから、この議論でイエスとの勝負に出たのでした。
当時の人たちにとっての復活は単純な考え方で、復活とは眠りから目覚めることであり、前と同じ状態で目覚めることが前提でした。だから、復活した日とは、当然食べたり、飲んだり、眠ったり、亡くなる前の行動が伴うという考えでした。そのため、「男が子どもを持つことなく死んで、その男の兄弟が子孫を作るために、その未亡人と結婚しなければならない」(申命記25.5~)という聖書にある具体例を引っ張り出してサドカイ派はイエスに質問しているのです。イエスは「聖書と神の力をあなた方は知らない」と、そのような考え方を否定し「復活した日とは、前と同じ人間であるが状態が変わってくる。その状態は天にいる天使のようであって、めとりも嫁ぎもしない」と言っています。
そして、サドカイ派の誰もが認めている律法「トーラー」の言葉をもって、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。神は死者の神ではなく、生きている者の神である」と宣言します。この宣言は、彼らが唯一、偉大なる予言者として認めていたモーセの宣言でもあり、この律法の言葉は、あなた方も信仰において宣言しているように、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神というのであれば、この偉大なる先祖の三人は、すでにモーセの時代に亡くなっているけれど、死んだアブラハムではなく生きているアブラハムであり、イサク、ヤコブを指しているのあって、今現在、生きている者として語っているのではないか? つまり神は私たちに復活を示唆しているのであり「生きている者の神」ではないかと指摘するのです。

イエスの説明と主張はそのとおりであり、真っ向から身体の復活を否定していたサドカイ派の人々にしてみれば、復活の非合理性を指摘して七人の兄弟が死んでその妻となった女性の話を持ち出して、「一体、誰の妻なのか」と、イエスを当惑させようとした質問は、そのまま自分たちに返ってきて、言葉を失ったのです。
私たちにとっても復活の世界は、色々想像することとなりますがなかなか難しいものです。イエスの話では、復活や来世はこの地上世界とは全く異なるものであること、従って、復活の世界を現世的、経験的次元で捉えてはならないことを指摘したのです。

天使と人間が異なるように復活した人間は、復活した神の子をなるので、肉体的にも、精神的にもこの世の人間とは異なった状態に置かれるというのです。
復活の姿は、誰にも関心があって、私たちの人間の都合で考えがちですが、そうであってはならないと言うことでしょう。
間もなく終わりを告げる「いつくしみの特別聖年」の恵みに励まされて、今日の詩編の言葉にあったように「わたしはあなたの後を歩み、あなたの道を離れない」と祈った詩編作者の言葉をそのまま、復活信仰に生きようとする私たち自身の祈りとして、神に信頼して祈りましょう。

この後、7月に誕生した赤ちゃんの洗礼式があります。神の子となる祐(ユウ)君とその家族とともに喜び、神の祝福を祈りましょう。』