2016年5月30日月曜日

キリストの聖体

聖体の祭日は、キリストの死と復活によってもたらされた救いの恵み、愛の結晶である「聖体の秘跡」を感謝する日です。

札幌は初夏を思わせるような陽気でした。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今、ルカの福音を朗読しましたけれども、このみ言葉を読みながら、今までに気づいたことのない気づきを私は与えらていました。それは、「日が傾きかけたので」(12節)から始まる一節のところにでてくることから感じたことですが、大勢の群衆がイエス様のみ言葉を聴くために集まって来た。そこは人里離れたところであった。そして、日が傾き、いわゆる夕食の時間を迎えようとしていることでしょうか。きっと、それまでにも空腹の状態でイエス様の話に耳を傾けていた群衆がいたということだと思います。弟子たちは食事のことが気がかりになってきます。解散させてそれぞれが自分たちで食事をとるようにしたらどうですか。誰もが考えることだと思います。そして、時間も遅いので宿を見つけて、それぞれ明日に向かうことだと思います。
   私は今まで何度もこの箇所を読んできましたが、今までに気づいたことのない気づきを私は、今日の朗読で感じたことですが、そんな田舎に、不自由な場所に大勢の人が集まり、お腹をすかしてみ言葉を聴いている。周りの町や村に行って宿をとるように言っている。どんなにその人々がみ言葉を聴くことに熱心であったか。宿のことも心配することなく、ただ、み言葉を聴くために集まって時間が過ぎていく。夕方を向けえている。そんな人里離れたところにまで、人々はイエス様のところに押し寄せている。 
 私たちも今、生きている信仰の中でそういう熱心さはどこから来るのでしょうか。時々、大きな行事の打ち合わせの時の話しを思い出します。時間のこと、交通機関のこと、帰る時間のことを考えて、行事の時間を考えなければいけないという話しに進んでいく、今の私たちの教会の姿と、今私たちが聴いた聖書の中の出来事、随分違うということを、今読みながら特別に今日はその気づきを与えられて読んでいました。私たちの現在のクリスチャンの生き方がありますが、当時の人々と比べて、私たちはどこまで、み言葉をまず第一に考えているだろうか。教会を第一に考えているだろうか。そんなことを考えながら読んでいました。

 今日は聖体を記念する祭日、キリストの聖体をお祝いしています。私たちのこの(現)聖堂が100年を迎える年を歩んでいます。(天井彫刻を見ながら)100年間の私たちの教会のシンボルのひとつに、ご聖体があります。皆さんは今改めてご覧になると思いますが。ここにあるのがシンボル、ご聖体ですね。私は時々ミサの祈りの中で目を上げて上を向いたときに、このご聖体に目がいくことがあります。そして、ミサを通してこのご聖体が私たちのところに降りて来る、そういう感覚を一瞬感じることがあります。ミサでご聖体の聖変化を進めているとき、もうすでにイエス様は私たちとともにいてくださり、この教会とともにおられ私たちを見守っていてくださり、導いてくださる。もちろん、聖櫃と呼ばれるところで、現存されておられるイエス様がそこにおられるのですが、このシンボルを通してもそんなことを考えるときがあります。私たちの教会の中には様々な教会のシンボルが記されていますが、時々私たちは気にも留めないで出たり入ったりしているかもしれません。時にはこうしたシンボルを見つめながら、自分の信仰を見つめることも大切かなと考えます。
  キリストの聖体の祭日を迎えて、私たちは今日、何を考えるのでしょうか。どんな祈りを捧げるのでしょうか。聖体と言えば一年の典礼の中で特別のミサが二度捧げられていると思います。ひとつは過ぎ越しの聖なる3ヶ間が始まる聖木曜日の典礼の中で、最後の晩餐を記念するミサがあります。その日のみ言葉は弟子たちにミサの原型となる聖体の制定が聖書から告げられます。それがひとつ。そして今日のキリストの聖体の祭日がもうひとつ。キリストの死と復活によってもたらされた恵みに感謝する、このキリストの聖体の祭日の典礼。

 聖体ということで私は別なことを思い起こしています。今の教皇フランシスコが就任したときのこと。就任してまもなくキリストの聖体を祝う書簡を全世界に送られていました。教皇様とともに聖体を前に祈りを捧げることを呼びかけたのは3年前のことです。当時、私は函館の教会におりました。その教会にも日本の司教団がその教皇様のメッセージを送ってきました。教皇様は一時間の聖体礼拝を行う、日本の司教団も教皇様の意向にならって、小教区の中で教皇様とともに祈ってくださいというのが、日本の司教団からのメッセージでした。教皇様が就任直後、全世界の教会に呼びかけ、信徒に呼びかけ、聖体の前で新しくなられた教皇様と心をひとつにして祈ってください、そういうメッセージでもありました。教皇様の覚悟というものがその中に私は感じました。先のベネディクト教皇の後を受けて、新しい教皇様はある種の覚悟を決めて就任されたのではないでしょうか。必ずしも若い教皇様ではありませんが、自分の生涯をかけて、命をかけて神の御国のため、そして人々の平和のために、ご自身を捧げる覚悟をされたかのように、まず最初に全世界の教会の信徒に向けて、ご聖体の前でともに祈ってくださいと呼びかけられました。
  その後、3年が経とうとしていますが、現在に至るまでその時の教皇様の覚悟は変わらないものとして、カトリック新聞にも度々教皇様としての行動、祈りの言葉、メッセージが伝えられているような気がします。現在の教会はどうあるべきなのか、どんな反省をして新しく歩み出さなくてはならないのか。信徒一人ひとりに向けては、自分の信仰を見つめてくださいと何度も何度も様々なメッセージの中で呼びかけておられます。そして、特に貧しい人、病気の人に想いをよせて、私たちにもその心を大切にするよう話されているような気がします。教皇様は3年の歩みをしていますが、当初のメッセージの中から伝わってきた心は、今も変わりなく私たちに届けられているような気がします。
  呼びかけの中でいくつかの言葉を想いめぐらしています。「私たちは皆、心の中である種の不信仰を抱いています。だから主に言わなければなりません。私は信じます。不信仰な私を助けてください。」教皇様はきれいごとだけを語るのではなくて、正直に自分の心の内を開いて祈りなさいと私たちに呼びかけます。「利己心に屈する度に私たちは神を否定します。私たちのために神の愛の計画をダメにしていくからです。」そして、続けて言われています。「奇跡は起こります。しかしそのためには私たちは祈らなければなりません。形式的にではなく勇気を持ってうむことなく堅忍、忍耐を持って祈らなければなりません。心から神に信頼して祈り、聖体の前で沈黙して  自分を捧げるようにして祈る、その時奇跡は起こります。」と教皇様は話されておられました。それは過ぎ去ったことですが、その心は今も私たちに届けられているような気がします。キリストのからだ、ご聖体によって養われている私たちは、聖体を頂くことに満足することなく、キリストによって変えられるために、聖体の前で祈り続けなければならないでしょう。

 キリストの聖体の祭日を迎えてもう一つ思い出します。かつてどの教区においても、どの地区においても、この札幌地区においても聖体大会が盛大に祝われていました。今、聖体大会は札幌地区では行われていませんが、聖体に対する祈りや想いは変わったとは言えないと思います。私たちには、変わらない聖体に対する想いや祈りがあると思います。一人ひとりが聖体の前で沈黙のうちにキリストを見つめ、自分の信仰が聖体によってどのように日々成長しているのか、そのことも考えてみなければなりません。私たちは、毎日毎日三度の食事を通して成長しているはずです。身体が保たれているはずです。同じように私たちは聖体を通して私たちの信仰が保たれているはずですが、成長しているでしょうか、変えられているでしょうか。そんなことも聖体の祭日を迎えて、私は考えさせられています。新しい歩みを踏み出すために聖霊の助けを願い、信頼を持って私たち一人ひとりが心から祈り続けているのかどうかも、今日改めて考えてみたらと思っています。
  教皇様が話されているように、本当に私たちは神の赦しを求めています。神の慈しみを求めます。不信仰、弱さから犯してしまった罪の赦しを願い、自分の生活の中で働きの場所で、置かれた場所で、和解と愛のメッセージをどこまで伝える使徒となっているか、イエス・キリストの弟子となっているか、そんなことも想いめぐらしたいと想います。私たちに託された弟子の一人としての使命、福音宣教、そんなことも改めて考え、黙想する日を迎えているような気がします。
 イエスは弟子たちに自分の十字架を背負って私に従いなさいと話されました。十字架を背負って、それも自分の十字架を背負って従いなさい。でも、私たちは自分の十字架を降ろして歩もうとしているのではないでしょうか。出来れば自分の十字架は、つらい十字架は、重い十字架は、心の痛む十字架はなるべく早く自分の肩から降ろさせてください。降ろしてくださいと
そういう祈りの方が強くなっているのではないでしょうか。自分の十字架を背負うということの意味もまたもう一度考えてみたいと想います。

  信仰はイエスに従うことと良く言われます。イエスに従うことと言うのであれば、今の自分から出て行くということ、そんなことを意味するとも考えます。今の自分をずっと保とうとすれば、イエス様に近づいていけないのではないでしょうか。今の自分を変えてもらって新しい歩みにイエス様は招いておられるのではないでしょうか。どこまで私たちはイエス様に従い、どこまでイエス様の声を聴こうとして歩みを続けているでしょうか。今日のパウロの第2朗読の中で「あなたがたは、このパンを食べ杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのである。」第2朗読の最後でパウロはこう述べています。主の死を告げ知らせるのである、この言葉はミサのたびごとに、聖変化の直後にも唱えられている言葉に結ばれます。「信仰の神秘、主の死を想い、復活を告げ知らせよう、主が来られるまで。」パウロの主の死を告げ知らせるのである、この意味は結ばれていると思います。聖体の恵みに与り、聖体拝領をしながら、不消化のまま留まることなく、私たちは復活の主に与るものでなければならないはず。聖体は私たちの罪を受けとめながらそれを赦す。私たちの罪を背負い清め、愛の力もまた与えてくださる。素晴らしい愛の結晶であるとも思います。
 今日もまた私たちはそのご聖体をいただきます。イエス様のもたらされた愛の神秘を心から感謝し、共に祈りたいと思います。5月の聖母月がまもなく終わろうとしています。イエス様を産み、そして育てた神の母マリアに感謝しながら、今日のミサをとおして近づいてくる、 ご聖体をいただきたいと思います。』