2016年4月30日土曜日

パウロ佐藤謙一司祭 初ミサ

昨日、司祭に叙階されたパウロ佐藤謙一司祭の初ミサが、午前7時から当教会聖堂で行われました。後藤神父様と森田神父様による共同司式でした。

時折、霰もぱらつく寒い朝でしたが、100人ほどがミサに与りました。




佐藤神父様のお説教をご紹介します。


『皆さん、お早うございます。
このようにごいっしょにお祈りできることを本当に光栄に思います。昨日叙階されて一晩経ちましたが、私自身はそんなに変わっていないつもりです。ただ、司祭になるといろんなことを自分でしていかなくてはいけないということを感じています。今日のミサでも、この後、感謝の祭儀を祝うわけですが、本当に大変な奉仕の仕事を任されたという実感が徐々に沸いてきています。
  今日読まれた福音は、昨日の叙階式で読まれた福音(ヨハネ15:12-17)の続きの部分です。昨日の福音では「互いに愛し合いなさい。」ということが言われていました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ということが言われていました。昨日の福音の中でイエス様はわたしたちに、本当に大きな掟…自分の命を捨てて他人を愛するという大きな掟を与えてくださったのだと思います。それを私自身も心に刻んで歩んで行きたいと思っております。
  今日の福音(ヨハネ15:18-21)ではその続きで、逆に「憎む」という言葉が出てきています。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」と言われています。私たちは人を愛するということと同時に、人を憎むことも出来ると言われています。憎むことも出来るというよりも、どうしても私たちは人を憎んでしまわざるを得ない存在だと思います。イエス様ははっきりとそのような私たちのどうしようもない性質、愛したいのに憎むという性質を示しているのだと思います。今日の福音の中で「人々はわたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。」と言われています。しかし、私たちは洗礼によって、そうではない者とされたのだと言うことです。イエス様といっしょに世に憎まれたとしても、イエス様の教えは正しいということを、私たちは伝えていくことが出来る、そういう者にされたということです。
  私自身は幼児洗礼ですので、自分から進んで信仰に入ったというわけではありません。その後の親の教育、指導によって信仰を深めていったものです。成人洗礼の方々は、私にとってみると、本当に素晴らしいことだと思うことは、自分の意志でイエス様について行くという信仰を自分で選びとったということ、私にとって本当に素晴らしいことだと思います。成人洗礼の方々はそんなにでもイエス様を信頼して、イエス様の歩まれた道について行こうとしているからです。
 私は今、司祭となって皆さんにその信仰を伝えていく者となりました。私もイエス様の後をついて行こうとしていますが、皆さんと同じように私自身もイエス様から離れたり、別の道を歩もうとしたりすることがあるかもしれません。それは私が一人の人間であって、私自身が素晴らしい者であるということではありません。皆さんと同じように私も罪深い者であるからイエス様について行こうとしているわけです。
  詩編に語られているように、「私たちはひとつの神の民」と語られています。そして、私たちはイエス様から大きな行動の基本となる教えを受けています。個人個人の信仰は大切なことですが、私たち全体が一つとなって歩んでいくことこそが大切だと 信仰の中心にあるのはそこだと思います。これからも私自身、司祭叙階されて信仰を支えてくれるものも、いっしょに歩む皆さんの信仰に支えられているのだと思います。ですから皆さんといっしょにこれからも、イエス様が歩まれた道を歩んで行きたいと思います。
  昨日叙階式がありました。厳密な意味で言いますと昨日の叙階式が「初ミサ」です。しかし、今日のこのミサで主司式者としてミサを執り行う、今日が最初ですから、司祭の第一歩だとすれば、記念すべき一日であるのではと思います。今日、皆さんと共に祈るこの日を心に刻んで、これから歩んで行く司祭生活を充実したものにしていきたいと思います。ですから、皆さん、私のためにもお祈りください。私も皆さんのためにもこれからもずっとお祈りしていきたいと思います。』

聖体拝領


ミサの後には、佐藤神父様から信徒一人一人に祝福がありました。