2015年5月5日火曜日

復活節第5主日 「ぶどうの木とその枝のたとえ」

後半のゴールデンウィーク初日のも拘わらず、9時ミサにはいつもの主日と同じくらいの方が集まり、聖堂内は心なしかブルーのウェアーが目立っていました。
そして、今日も子供たちの侍者がたくさん集まりました。


ミサ後にわかりましたが、外国からの方も含めて10名程の旅行者がいらっしゃっていたようです。北一条教会では先週からネパール地震の募金呼びかけを行っていますが、旅先にも拘わらず多くのかたがネパールの子どもたちに心を寄せ、カリタスジャパンを通じての募金活動に賛同をして下さいました。
後藤神父の説教は「聖母月の5月を迎えました~」で始まり、世界中で起きている繋争から私たちの些細な揉事までの解決について、聖母マリアのとりなしを、「ブドウの木」の譬えでは剪定を強調され、私たちの中にある不誠実を戒められたように伝わりました。
北一条教会は、来週10日に教会総会が開かれ、新しい委員長の下で新たな旅立ちが始まりますが、今日の月例集会が現委員長下での最後の月例集会になりました。6年間もの長きに亘って教会共同体を纏めて下さった現委員長に感謝をします。


後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。

『今日私たちに語られているのは、ぶどうの木と枝のたとえ話です。イエスが十字架を前にして、イエスを失った後の弟子たちが信仰生活を続けていくために、今何が必要であるのかを話したのが、今日のたとえ話になります。私たちはこのたとえ話をどのように受け止めているでしょうか?
ゆっくり静かに今日のみ言葉を味わうと、神様の愛が私たちの心に響いてきます。いかに私たちは神様とつながっていることが大事なことであるのか、そして本当に神様とつながっているのかを問われているような気がします。
イエスは弟子たちに話されています。「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」そしてその前段では”実を結ばない枝は刈り取られる”という言葉が語られていました。
私たちは実を結ぶことができる枝として、信仰を生きているでしょうか?
イエスにつながっているでしょうか?
また、イエスは次のようにも語れます。
「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」
私たちは時にこのような言葉を聞いて、それでは何かお願いしてみよう、という気になってしまいます。しかし、必ずしも願ったことが叶わないということも私たちは知っています。思うようにならないこともある、ということを私たちは知らなければなりません。そして時に、イエスのみ言葉を十分に理解しないまま、願いがかなえられないと不平不満を言っている私たちがいます。イエスの言葉を注意深く聞いてみましょう「わたしの言葉がいつもあなたがたの内にあるならば、」と言っておられるのです。
私たちの信仰が、いつも神を信仰し一致してイエスのみ言葉を生きているなら、あなた方の願いは何でもかなえてあげようと言っておられるのです。私たちがイエスのみ言葉を蔑ろにしたり、聞く耳を持たなかったり、自分の都合のいいようにだけ解釈して生きているのに、願い事だけは一生懸命となえているということも有り得るような気がします。
また本当に心からイエスの名によって願っていたでしょうか?自分の思いが先になっている願いの方が多かったのではないでしょうか?
ゆっくりと静かに黙想することによって、普段気付かないことにも気付かされます。
ぶどう園の主人というのは、ぶどうの収穫のために、手入れを一生懸命されている方です。広い畑を見回しながら、弱っている枝、痛んでいる枝には消毒もし、肥料もやり、汗水流して一生懸命世話をします。剪定もしなければなりません。神はつながっている枝に対して、そのようなことをされているということを今日のたとえで話されています。つながっている枝に対して、伸び放題に放置しているのではなく、時には痛みを伴う剪定もしているというのがこの話の中にあると思います。”剪定”というのは、私たちの人生の中での痛みや苦しみの体験であり、枝をより丈夫にするための試練なのかもしれません。もしそのように受け止められるのなら、神様の愛をより感じることができ、痛みも苦しみにも耐えることができるような気がします。剪定をしながら、もしかしたら私たちに厳しい訓練をされているのかもしれない、私は黙想をしながらそのようなことも感じます。
つながっているということは、ただ安心して自分の思い通りになっている人生を過ごすということだけではなく、時には思いどおりにならない人生の日々があったにしても、それは神の私たちに対する愛のために受けなければならない厳しい訓練であり痛みなのかもしれません。それは多くの実を結ぶために、神が為されていることだと受け止めることができるなら、私たちはもっと強い生き方をできるような気がします。』