2015年1月11日日曜日

主の洗礼(祝日)

今日は「主の洗礼」の祝日です。

私たちは洗礼を授かって、神の民そして神の民の共同体の一員となりました。
この祝日に洗礼について黙想してみましょう。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『最初に洗礼について考えてみたいと思います。
今日ミサに訪れている人の多くは、洗礼を既に受けられていると思います。
私たちは教会で洗礼を受けていますが、
私たちにとって洗礼とは何でしょうか?どんな意味を持っているのでしょうか?
ご両親が既に信者であれば、子供が生まれるとまもなく洗礼を授けます。
ですか長い信仰生活を送っていても、自分の洗礼の時の記憶を持っている方は、意外と少ないと思います。幼児洗礼であるとなおのこと、洗礼の時の記憶が全くない中で信仰を生きておられる方もいます。そういう状況で洗礼を考えるということは簡単なことではないと思います。
教会には七つの秘跡があります。
信仰生活を生きるうえでの要となる七つの秘跡は、
洗礼、聖体、堅信、赦し、結婚、叙階、病者の塗油になります。
この秘跡は、それぞれ人間の一生に関わる神の恵みを表しています。
神の見えない恵みを見える”しるし”として表しているもの、それが秘跡という言葉で表されています。
神を信じて祈っている私たちの信仰そのものが、その秘跡を求めさせていると言っても言い過ぎではないと思います。
唯一の神を信じ、復活を信じ、イエスの教えと教会の導きに従って生きるために、私たちは信仰者としてふさわしい神の子として罪の赦しを願います。
そして、教会共同体として、神の民の共同体として、共に祈る信仰が生まれていきます。
最終的には、神の平和な国へと招かれることを何より願っているのは、私たちであり私たちの信仰ではないでしょうか?
イエスは弟子たちを選び、いつも「あなた方」と呼びかけながら教え導かれました。そこにも共同体を示しているイエスの思いが表れています。
それは教会の始まりでもありました。弟子たちの招きは、12人の弟子たちの選びは、一つの教会共同体の始まりを表すものであったとも言われています。
神の家族として、一つの共同体を為して、イエスは神の国を多くの人々に知らせていました。
私たちも洗礼によって初めて教会に属する信者となります。そして、教会には守るべき主日と祝祭日があることを教えられ、教会に足を運ぶようになります。
主日のミサは特に信仰を生きるための重要な聖なる日として私たちはそれを守ろうとしています。日曜日にこうして集い、祈るのはその表れです。
何故皆さんは日曜日に、ミサに来ているのでしょうか?
それは主日を大切にするという聖書の教えに深く結ばれて、毎日曜日教会に足を運び、イエスの聖体に養われているのです。
主日の日曜日を大切にするということも聖書に基づき、また教会の共同とつながっています。そこからカトリックの信徒の信仰があり、その前提にはまた、父と子と聖霊の御名によっての洗礼がありました。
私たちの洗礼は、いつも三位一体の神との深い結びつきによって生かされている、また生きているのだと思います。
イエスは弟子たちに、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けなさいと言いました。私たちは洗礼を受けようと希望する人に対して、そのことを準備させ、勉強し、長い時間教会の教えに基づいて学んで洗礼に至ります。
洗礼において大切なことを今一度お伝えしておきます。洗礼において神の子となるということは、神の民の一員となる、そして神の民の共同体の一員となるということであり、それは一般的に教会共同体といわれているものです。
信仰は”神と私”との個人のつながりとの考え方もあるのですが、同時に”神と私たち”共同体との深いつながりの中に信仰があるということも忘れてはなりません。
洗礼についてパウロは、「キリストに結ばれるために、洗礼はキリストの死と復活の過ぎ越しの神秘に与かることである」と聖書で語っています。
キリストはどうして神の子であるのに、洗礼を授けられたのだろうか?と疑問に感じるのではないでしょうか?私も長いことそのような疑問が心の中にあります。
単純で素朴な疑問かもしれませんが、皆さん方の中にもそんな疑問を感じる方もおられるのではないかと思います。
キリストの生き方、キリストの教え、その姿を見ていくときに、なるほどキリストは私たちと同じように生きられた方、そんなことを私自身実感するようになりました。
キリストは神の子であるからといって、特別な生き方をしたのではなく、私たちと同じように、私たちの傍に近づき、私たちと同じ立場に立って、生きられた方。特に貧しい、罪を犯した、救いが必要な人にいつも駆け寄って来て下さり、私たちと一緒に歩いて下さった方。キリストは神の子でありながら身分を低くして、私たちと同じように生きられた方です。それだから私たちはキリストを身近に感じることができたのだと思います。
ヨハネは洗礼を授けるにあたって、罪の告白、そして回心することを呼びかけていました。新しく生まれるために、新しい出発をするために。ですから、自分の前に神の子である救い主であるイエス・キリストが現れたときヨハネはためらいます。このとき聖書ではヨハネはこう話されました。「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私のところに来られたのですか?」このように、ヨハネはキリスト思い止まらせようとしています。でもキリストこう話されました。「今は止めないで欲しい。正しいことを全て行うのは、我々に相応しいことです。」こうイエスが話されたので、ヨハネは言われたとおり洗礼を授けたのでした。
先ほどもお話したように、イエスは私たちと同じように生きられた方、それがキリストが私たちに示された姿です。罪に苦しみ、赦しを願い、痛悔する人間との連帯関係、深いつながりにご自分を位置づけられているイエス・キリストの姿が常に聖書をとおして私たちは見ることができます。そして死を受け入れ、しかも十字架の死に至るまで父の御旨に従うものとなられた方、それがイエス・キリストです。
まさにキリストの生き方は、洗礼のときにも表れたと同じようにして、一貫してその命を捧げるときまで、私たちと同じ人間の姿を示されました。
上から人間を救おうとはなさらず、むしろ下から一緒に苦しみ、一緒に悩みながら私たちに救いをもたらしたイエス・キリスト。今日の第一朗読では、イザヤの言葉がそれを表現しています。「彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」(イザヤ42・2-3)。
キリストは、自らを罪人と痛悔する人々に、深くつながれることを位置づけて、人を決して差別することはありませんでした。神の愛はまさにそのことを象徴しています。
キリストの洗礼を黙想するとき、自分の罪の悔い改め、心の回心を学ばなければならないと思います。キリストが私たちと深くつながってくださるならば、もっと私たちは心からの赦しを願い、洗礼の時の精神に生まれ変わらないとならないと思います。
同時に私の愛する子となるために、キリストの姿から謙遜を学んでいかなければならないと思います。新しい一年の日々がスタートしています。傲慢な心を変えて、私たちがひたすら心から祈ることができるようキリストの洗礼を思い浮かべながら、信仰を見つめて歩んでいきたいと思います。』


御ミサの後の教会学校では、ボーイスカウト26団主催の「餅つき大会」に参加しました。
寒い中でしたが、みんなで一緒に餅つきをしました。
つきたてのお餅でお雑煮を食べました。おいしかったねー。