2014年6月16日月曜日

三位一体の主日

三位一体の祝日は、1334年 教皇ヨハネ22世により全世界の祝日として制定されました。
私たちは、「父と子と聖霊」の御名によって洗礼を受けました。
今日、私たちが十字を切る度ごとに、この恵みを思い起こすことにしましょう。

後藤神父様が宮前町教会の主任司祭だった数年前に、ご自身で集められたり、信徒の皆さんから募集した「三位一体」のイコン(御絵)をカテドラルホールに飾りました。
イコンのコピーを木片に貼り付けたり、額に飾ったりすることで、また違った味わいになります。そのテクニックをそのうち伝授して下さるそうです。ご興味のある方は、ぜひ神父様にお声がけください。


今日の主日ミサの後藤神父様のお説教をご紹介します。


『三位一体のことをお話しするのは簡単なことではありません。そのこともあり、一年の中でも三位一体の主日ミサのお説教は少し気が重くなります。
皆さんは、三位一体の意味をどのように理解しているでしょうか?
私自身も公教要理や神学校で学びましたが、今日の主日を迎えて三位一体を言葉で表す事の難しさを改めて感じています。
全能の神を言葉で表すのが難しいように、三位一体を説明するのは永遠を説明することと同じように難しいことです。究極的には神を信じるか信じないかに繋がることだと思います。
北一条教会に赴任して一ヶ月が経過しましたが、最初の主日ミサの日は「母の日」で、今日の三位一体の祝日は「父の日」、そして着任する直前は「こどもの日」でしたので、家族としての共同体を思い起こす三位一体の祝日を迎えています。
神は三位一体であるということを十分に理解しようとするなら、誰しもそれはどのような意味なのだろうかと疑問を持つことは当然です。それほど三位一体は難しい教義であると思います。しかし考えてみると、難しい教義がそこにあるにも関わらず、私たちは毎日のように三位一体を神に向かって祈っています。
私は真理を理解することは重要なことだと思いますが、単純に受け入れること、信じることも信仰を生きる上ではとても大切なことだとも思います。

今日のヨハネによる福音(ヨハネ3・16-18)は大変短い福音でした。ヨハネ福音書は、御父を啓示する御子の福音書とも呼ばれています。何故かと言うと福音のなかでは、神を表す父という言葉が122回も使われています。これは他の福音に比べ圧倒的に多い数になっています。マタイ福音書では44回、マルコ福音書では5回、ルカ福音書では17回となっていることからも分かります。また、父という言葉と同時に、子という言葉も私たちはよく聞きます。子については、神の子、人の子、私を愛する子とか、ダビデの子という言葉も旧約の中では見られるように、様々な表現が使われていますが、ヨハネ福音書でだけ「ひとり子」という表現が4回使われています。またイエス自身を表す「わたし」という一人称も際立って多く使われています。これらのことからもヨハネ福音書が御父を啓示する福音と呼ばれる所以が分かります。
「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」私たちが何度も何度も聞いたことがある御言葉です。私たちの信仰は三位一体の祝日だけではなく、あらゆる機会に御父と御子と聖霊とに常に導こうとされる神がそこにまします。主の御言葉に従い、その御業にならう努力も必要になります。
私たちの信仰生活はどうでしょうか?
旧約では次のような物語が展開します。モーセに導かれていた民のように、神を信じると言いながらも道を誤り罪を犯してしまう民がそこにはいました。ひとり子であるイエスを見つめ、全ての人の僕にならなければならないと願いながらも、遣えるために身を低くされたイエスを忘れ、自分を優先してしまうことの多い私たちの信仰がそこにあるのではないかと思います。そのような罪を犯す私たち一人一人にも神は常に聖霊をおくり、私たちの行いを変えてくださる恵みをもたらしてくださっています。7つの聖霊の恵みを私たちに与えて下さっているその神こそ、三位一体にまします神ということでもあるのです。三位一体の偉大なる神の深い愛と慈しみは、今日の福音にも描かれています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」
こう父なる神を表現しています。
信じる者に対して、三位一体の偉大なる神は罪に対してさえも限りない深い愛を示してくださいます。私たちはその神を信じ、その神を見つめながら生きています。
私たちは、生活の中で何を優先させているでしょうか?
時々考え込んでしまうこともあります。どちらかというと裁く方に心が向いてしまうのが私たちではないでしょうか?裁くことではなく、隣人の苦しみを分かち合ったり、赦しあったり、助け合ったりするほうの心を大切にしたいと願います。
私たちを憐れみ、慈しみの手を常に差し出してくださる三位一体の神の深い配慮に今日は感謝して、私たちの新しい歩みが始められるように祈りたいと思います』