2017年8月15日火曜日

聖母の被昇天 (終戦記念日)

午前10時から「聖母被昇天」の祭日を記念するミサが行われました。


引き続き、終戦記念日にあたり12時に鐘楼の鐘が鳴らされ、戦争犠牲者と平和のためにお祈りを捧げました。

この日の後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。


『今日の「聖母被昇天」の祭日にあたって改めて、マリアの存在と崇敬の意味を教会がどのように教えているのか振り返ってみたいと思います。
マリアは教会の数多くいる聖人の中でも特別な存在です。それは、神の母、すなわちキリストの母であり、贖い主の母として認められ、教会の母として讃えられているからです。
多くの人は「聖母被昇天」を迎えて、神様よりもマリア様に心を向けて祈っているように思うこともあるのですが、まず、神様があっての被昇天であることをしっかりと理解して祈ることは大事なことです。
アヴェマリアの祈りで「神の母、聖マリア、わたしたち罪人のために、いまも臨終の時も祈り給え」とあるように、マリア様の役割については、キリストの結びつきから切り離すことはできない救いのみ業につながっています。』

2017年8月14日月曜日

年間第19主日

この日の福音では、「パンの奇跡」のすぐ後の出来事として、自然界の嵐が語られています。

夏休みで帰省中の蓑島神学生が聖体奉仕をされました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『毎年の事ですが、8月に入って高校球児の熱い夏が始まっています。野球ファン、特に高校野球のファンにとっては、たまらない高校球児の姿ではないかと思います。汗にまみれ白球を追う球児の姿に、私も青春そのものを 見て感動したりしています。テレビ画面に釘付けになっておられる方もいるかもしれませんが。
 今日の朝6時には、陸上の世界選手権の100メートルリレーで、日本のアスリート、若者たちが銅メダルを獲得したニュースが流れてきました。テレビ画面では観衆の大きな嵐がどよめくように聞こえてきますが、金メダルが確実と見られていたジャマイカのウサイン・ボルトという選手が足の故障で棄権しメダルを逃した。そのせいもあって日本がメダルにくらいついたと言えるかもしれませんが、日本の陸上界の若い人たちの力が、どんどん世界のレベルにまで達していることは、今年の陸上界をテレビで観ていても私自身感じるところでした。

 テレビの画面では熱烈なファンの嵐が呼び起こされていますが、今日の聖書では自然界の嵐が語られています。先週は「主の変容」の祝日の日曜日でした。この「主の変容」は移動日になりますので、必ずしも日曜日にあたるとは限りませんが、今年はたまたま日曜日に重なって「主の変容」を先週祝いました。そのために、普通であれば先週の日曜日には、5000人の人にパンを分け与える「パンの奇跡の話」が語られるところでしたが、その話は消えてしまって、「主の変容」のみ言葉を私たちは聴いたわけです。ですから今日の聖書の話は、通常「パンの奇跡」の後に語られるお話しが今日のみ言葉になっています。ですから、今日のみことばの最初は、一言そのことが分かるようなかたちで触れられています。「人々がパンを食べて満服した後」というみことばが語られているわけです。パンの奇跡の内容は弟子たちの想いと、イエスの思い違っている、そういう内容で展開していました。弟子たちは群衆を解散させてほしい、もう夕食の時間でもあるし、大勢の人に食事を与えることは難しい。だから解散させてくださいとイエスに申し出たのですが、イエスはそうではなくて、パンをかき集めて奇跡を行い、5000の人に満腹させるために食べさせたという話しになりました。

  今日の「パンの奇跡」の後に続くみ言葉を私自身いろいろ受けとめ考えます。私自身は今日のみ言葉で、イエスのひとつひとつの行動、行為、言葉にいくつかの注目するポイントが出てきます。一つは強いて舟に弟子たちを乗せて群衆と引き離していること。何故イエスは強いて弟子たちを群衆と引き離したのか。また、イエスと弟子たちもいっしょに離れた場所に動き始めることがとても気になる箇所です。もう一つは、イエスは一人山に登って長い間、夕方まで祈りを捧げます。イエスは弟子たちから離れて一人祈ったこと、何故一人で祈ったのか、どんな祈りを捧げたのか、そんなこともとても気になる内容です。さらに、舟に乗っている弟子たちのところに湖の上を歩いて行かれた。それは不思議なことですが、水の上を歩いたイエスの姿もまた、とても気になる特別な出来事として考えます。そして、最後のひとつは、それを見たペトロがイエスの呼びかけに従って水の上を歩こうとした。だけれども、最初は歩いていたはずなのに、突然嵐の風に感じいって気付いた。そのことに心が向かったら沈みかけた。 自分の不信仰のために溺れかけたという内容が繋がっていきます。そういうイエスと弟子たちの行動のひとつひとに特別な意味があるのだろうと、黙想になってしまいます。
  今日の第一朗読では自然の山が舞台となって、激しい地震や風が起こったことを語っています。自然の嵐、出来事。今日の湖の嵐に繋がるような話しが、すでに第一朗読で語られていた共通点も見えてきます。私たちが生きるこの自然界には、常に私たちが予想もできないことが起きてきます。そして今日の福音では湖の上で恐ろしいの嵐の物語です。人生の嵐も考えられます。私たちはそういった人生の嵐の前では、どんなふうに、どのように自分の信仰を見つめているでしょうか。自分の信仰を生きているのでしょうか。そういうことも今日の聖書のお話を通して考えることが出来るようです。

  イエスは一人で祈るために敢えて弟子たちと離れて祈ります。敢えて弟子たちと離れた内容が語られています。私は、「敢えて」という内容がますます気になるかというか、どうしてそのようにしたのだろうかと気になります。そしていろいろなことを考えます。一人で祈られたイエスの祈りはどんな内容だったのか、どんな祈りだったのか。弟子たちから距離をおかれたということは、そこにどんな意味が隠されているのだろうか。これまでずっと共にいたイエスと弟子たちであるのに、このときは離れた。そういう時間を過ごしている、その内容がとても気になります。
 そして、弟子たちの信仰、不信仰という話しが続きますが、「パンの奇跡」のときにおいても、また湖の上を歩かれた主の姿を見ても、後においては弟子たちは信仰告白を常にしていきます。これまでもイエスの奇跡を目の前にして、弟子たちはその驚くべき出来事の前で神の力、イエスの力を思い知って信仰告白を何度もしてきました。先週の「主の変容」の場面においても、ペトロガ信仰告白したことを私たちは思いおこすことができると思います。そんな弟子たちの姿、そしてそんな弟子たちの信仰をイエスは常に見つめていた。その危なげな、迷ってしまいそうな信仰を常に受け入れながらも、弟子たちを強め励まし、神の国、神の力を教え続けていた。  イエスが一人祈るその姿は、もしかすると近づいてくる、エルサレムに向かう、十字架に繋がるご自分の道の使命を祈っていたかもしれない。この時期、遠からずイエスはエルサレムに向かい、受難と十字架の道に辿り着こうとしています。そういうことを想像することができるなら、その前表としていずれ自分は弟子たちと離れざるを得ない。そういう心境もあって、このとき一人山に登って弟子たちと離れて祈られたのでしょう。そして弟子たちはイエスと離れている中においても、共にいるイエスを感じなければならないなずであったのに、  共にいるイエスを忘れて常に不安な状況になってしまう、まだまだ信仰のおぼつかない弟子たちの姿があらわになるような気がします。 

  私たちが信頼する神に心を向けるとき、神の慈しみが見えてきています。感じられます。イエスの言葉にも慰めを見いだし力を頂くことができます。でもそれは神に信頼し、イエスに信頼し心を向けて祈っているとき、そのときは本当に神の慈しみの中に感謝の気持ちが見出せます。不安もそうしたときにはほとんど感じないで  神への信頼から力を頂いているのだと思います。
  パウロが話しています。「だれがキリストの愛から私たちを離れさせることが出来ようか。」(ローマ8:35)神との信頼がはっきりと掴めているときにはまさにパウロの心境に繋がっていきます。回心したパウロの信仰もそういうふうにして、かつてとは全く違った形で自分の信仰を精一杯、命をかけるくらい生きようとしていきます。
 今日の第二朗読でもパウロの言葉がこのようにありました。キリストは万物の上におられ永遠にほめ讃えられる神。まさに信頼がゆるがない信仰を持つパウロの言葉がこうした言葉になってきます。
  一人山に登りただ一人祈られた、聖書はそう伝えてきます。イエスのいない舟に乗った弟子たちは、陸から少しづつ離れて行く中で風を感じ、波が段々と強くなっていくうちに、舟が揺れはじはじめたときに不安を感じています。波と戦っている舟は言うまでもなく私たちの教会を指すかもしれません。そして私たち一人ひとりのこの世での人生、そうしたひとときを表しているのかもしれません。舟の進行が妨げていると、波は悪のシンボルのようにも感じます。誘惑のようにも感じます。またそれは私たちが直面する困難であり不安を誘うものとしての嵐につながっていくような気もします。教会に対する信仰と信頼を揺るがすことは、今の私たちの社会にも教会にも、けっしてないわけでもありません。私たちの教会の中にも時には、困難を見いだすこともあります。そしてそれを作ってしまうこともないわけではありません。
  そういう中で私たちが直面してくる困難、不安、嵐。揺れる心でもしキリストを見たとしても、もしかすると弟子たちのように幽霊としてか目には写らないのかもしれません。不安や動揺や心を騒がせるような状態では神さえも見いだせない、見つけられない。突然のようにもし地震が起きたり嵐が起これば、神の世界を見失って慌てふためくのが私たちではないでしょうか。この頃は時々、日本でもよく地震が起こっています。北海道でも何度かありました。震度1であればそれほど動揺することはないかもしれませんが、テレビのニュースで震度3などと報道されると、治まってからでも心が落ち着かなかったりします。動揺するのは弟子たちだけでなくて、私たちも同じようなことがいえる。奇跡の前で感動もし、力強い信仰告白も何度もしてきた弟子たち。それは私たちの信仰の体験の中で、神の慈しみに何度も感動して、信仰告白をして、祈りを捧げてきたのと同じかもしれません。

 私たちの信仰、困難や嵐に立ち向かわなければならない私たちの信仰の中で、私たちは神を見失うことのない状態で信仰を生きているでしょうか。神に信頼をよせているでしょうか。そんなことも今日のみ言葉で考えさせられます。信仰は希望や平和を私たちに与える機会にもなっていますが、私たちの信仰はただ頂く恵みを生きるというものではないはずです。信仰は人生の嵐や不安の中で、迷い苦しみながらも成長するものであることに、気付いていきたいと思います。ただ恵みを頂く信仰ではなくて、迷ったとき、苦しみにあったとき、神が一瞬見えなくなったとき、そうした試練をとおして、私たちの信仰を成長させなければならないものだと思います。私たちの日常におこる動揺から神から目を離すことなく、そしてペトロのように水に沈んでいくような信仰ではなく、もっともっと神に心を向ける努力をしていかなければと、今日そういうみ言葉を聴かされているような気がします。
 旅する教会でもある私たちの信仰。そして人生を考えるとき、予測出来ない嵐のような人生の途中で吹かれる風があります。危険な波も寄せてくることがあります。そうしたことを予測したり、戦うことは常に私たちの心の中に覚悟として持っていなければ。その嵐に勝ったときには、すぐにも神から目をそらす信仰になってしまうような気がします。どんなときも強い信頼を持って神に心を向ける信仰を私たちは願っていかなければならないと思います。今日もまた、そのことを私たちの祈りとして、教会の祈りとして捧げながら、主のご聖体に近づきたいと思います。』

2017年8月6日日曜日

主の変容

72年前のこの日、広島に原爆が投下された8時15分に教会の鐘楼で「平和の鐘」が鳴らされました。犠牲者への追悼と平和のために祈りましょう。

ミサの中で二人の子供たちの初聖体がありました。この日のために夏休み返上で準備をしてきました。おめでとうございます!


ちょっと緊張気味かな・・・


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『夏も真っ盛りという8月を迎えています。九州の豪雨災害、世界中で起こるテロ、つい先日の北朝鮮のミサイル発射など、私たちの毎日を不安にさせる出来事が続いています。また、国を代表する政府も混乱する中、8月6日の今日、広島は原爆投下から72年目を迎える夏になりました。
新聞の記事で見ましたが、今年新たに5,530人の亡くなった人の名前が追加され刻まれているそうです。今もきっとこの時間、式典が続いていることだと思いますが、名前もわからないままの人を含めると30万8,725名の方々の死没者名簿が今年も納められて式典が進められているようです。想像を超えた死者の数です。私たちは毎年今日の日を迎えて、今日だけは少なくともそのことに心を寄せて、平和の願いを祈りに込めてミサに与る方も多いかと思います。
昨日はこの北一条教会において平和講演がありましたが、日本の教会では平和旬間として15日の平和祈願ミサまで、平和を考える期間が設けられています。平和的に利用するという名目で使われている核、原子力の事故がいまだに収まらないというのは誰でも知っていることです。私たちも歯がゆい思いをしていますが、今日は犠牲者に祈りを捧げながら平和のためにも祈っていきたいと思います。

さて、福音朗読では「天の国」のたとえが毎日曜日ずっと続いていましたが、今日のみことばが伝える内容はガラッと変わって、「変容」のお話になっています。「主の変容」の祝日を迎えています。主の変容の話は、4つの福音書のうち共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書でその出来事が語られています。この3つの福音書に共通することは、変容の出来事の前にペトロの「信仰告白」が記述されており、これには非常に大きな意味があるのではないかということを聖書学者たちは気付いています。変容の前に、弟子の一人ペトロが「信仰告白」をしている、その後で主の変容が起こっている。ペトロの信仰告白と何か繋がりがあるのではないか、ということが解釈上考えらえます。
変容の出来事の少し前には、洗者ヨハネがヘロデ王によって殺されています。そしてそのことを含めて、イエスの噂はどんどん広がっていっているようで、色々な人が噂をしています。聖書では、イエスのことを「洗者ヨハネではないか?」「予言者エリヤではないか?」といった、そういう噂もあったということです。イエスはそのような噂を弟子たちから報告され、イエスは弟子たちに問いかけます。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」この質問に逸早く応えたのがペトロです。「あなたはメシア、あなたは生ける神の子です。」と真っ先に応えたのです。その後に、今日の変容の出来事が起こったということのようです。

イエスは、ご自身の栄光の姿を弟子たちに見せた後に、やがて訪れる受難と死を打ち明け、さらに三日目に復活するということも弟子たちに話します。この出来事、そしてイエスが弟子たちに自分の将来について話した後、聖書の流れはこれまでとは大きく変わっていく内容になっています。エルサレムへと向かう受難の道へと進んでいきます。
主の変容の姿を間近に見て、弟子たちは驚き、同時に終末の素晴らしい姿をイエスから感じ取ります。特別に選ばれた三人の弟子たちは、ユダヤの思想を回顧したことでしょう。出エジプト記で、モーセが山で神と出会い、山から下りてきた時、白く輝いており、神から十戒を授かったという過去の言伝えを改めて思い出していたのではないでしょうか。今日の第一朗読においても、人の子が現れて、その変容の姿を記しています。モーセもそのような出来事に遭いました。予言者もそのような変容の出来事を語っていました。ですから、弟子たちは過去に聞いてきた出来事とイエスの変容を重ね合わせていたのだと思います。

私たちの思いから遥かに超える栄光の出来事です。私たちから考えると現実離れしたものというようになってしまうかもしれません。でも、この弟子たちが体験したことは、現実から遠く離れたところにある輝きではなくて、現実を輝かしめていることが神の栄光であるというように、考えることはできないでしょうか。

イエスの十字架と復活の出来事は決して離れたものではなくて、切り離すことはできない結びつきを持っています。イエスはこのことを変容の直前に弟子たちに話していました。聖書には「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。・・・・人の子は父の栄光に輝いて天使たちと共に来る・・・・」とあります。
日常的な現実を超えた体験をした弟子たちでしたが、イエスを信じた弟子たちにとって決してそれは驚くべき体験ではありません。限界を超えたかのような体験ではありましたが、信仰を支える力としていった弟子たちではなかったでしょうか。私たちに、この変容の出来事はどのように映っているでしょうか、そして捉えることができるでしょうか。
私たちの信仰の支えとなるような出来事として捉えることができるならば、それは素晴らしい幸いなことになると思います。
弟子たちにとって、この幻のような体験に意味があり、みことばがありました。今日のそのみことばを私たちも聞きました。
「これは愛するわたしの子、わたしの心に適う者。これに聞け」みことばが天から聞こえてきたとあります。弟子たちにとっては、その天からの声もイエスの洗礼の時に聞いた声と同じみことばであるということを心に留めたのではないでしょうか。

時代と場所を超えて私たちにも迫り語ってくる神のことば。弟子たちにとってこれから苦難が迫ってくるのですが、この栄光の出来事は、現実に力と勇気、さらに希望を与える出来事でありました。私たちの信仰においてもこの出来事が、慰めや希望に繋がっているものでありたいと思います。
今日の変容の出来事を黙想しながら、私たちにとっても希望や励まし勇気となる、そうした理解のもとで受入れられるよう祈りたいと思います。

今日このミサで、初聖体を受ける二人の子供がいます。子供たちは夏休みを返上するように集中的に準備を進めてきました。昨日は「赦しの秘跡」の勉強をして心をきれいにしています。そのきれいな心の中にイエス様が訪れようとしています。お二人の初聖体に神様の祝福を皆さんと共に祈りたいと思います。』

2017年7月31日月曜日

年間第17主日 小田武彦神父様をお招きして

7月29日(土)~30日(日)に、小田武彦神父様(カトリック大阪大司教区司祭、聖マリアンナ医科大学特任教授宗教主事)をお招きし、「ミサ 愛の秘跡に生かされて」と題して講演会が行われました。


主日ミサ後に行われた2日目の講演では、教皇ベネディクト16世 使徒的勧告「愛の秘跡」を引用され、キリストの愛の秘跡とご聖体をいただく意味、信徒の務め、大切に心がけなければならないこと、などについて解りやすくお話いただきました。
私たちが日常生活を過ごすなかで埋没しがちな使徒的意識を目覚めさせていただけるような大変有意義な講演会となりました。特に「私たちが与るミサと日常生活は深くつながっていることが大切です」という言葉がとても印象的でした。イエス様の語られる真理を、私たちは日常生活を送るなかでいつも心に留めておくことが出来るよう祈りたいと思います。






講演会後に小田神父様を囲んでの茶話会では、参加者からの質問にご丁寧にお答えいただき、また、司祭を志すきっかけや、当教会主任司祭 後藤神父様との神学校時代のエピソードについてなどについてもご披露いただき、楽しいひと時を過ごすことができました。
小田神父様、遠いところからお越しいただき大変有難うございました。

この日の主日ミサを司式いただいた小田神父様のお説教をご紹介します。


『今日の第一朗読は、ソロモンがお兄さんのアドニヤとの争いに勝ち、ダビデの王の位を正式に受け継ぎ、ギブオンで一千頭もの焼き尽くす献げ物を捧げ終わった日の夜に、ソロモンが見た夢の話しです。王になったばかりのソロモンは焼き尽くす献げ物を捧げながら、神に向かって必死に祈り続けていたのでしょう。神に感謝し、愛と信頼を込めて語りかける恵みを願い続けていたはずです。焼き尽くす献げ物を捧げ終わった夜、そんなソロモンの夢の中に神が現れて「あなたの願うことを何でも与えよう。」と、おっしゃってくださったのです。ソロモンはアドニヤとの争いに勝つことによって王の位に就きました。その激しい争いの様子は旧約聖書の列王記上1、2章に書かれていますが、けっして生やさしいものではありませんでした。ソロモンはあらゆる手を使って反対勢力を一つ一つねじ伏せ、必死になって王としての立場を確かなものにしていきました。
でも、ソロモンは自分の力で王になれたとはけっして思わなかった。今日の第一朗読の7節をご覧ください。ソロモンの最初の言葉です。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。」実際は激しい争いによって王になったのですが、ソロモンは自分はあくまでも神のみ旨によって、王として立てられたのだと本音で受けとめていました。そして、ソロモンは続けて主に向かって語り掛けます。「私は取るに足りない若者、でどのようにふるまうべきかを知りません。」取りあえず国内を統一することはできたけれど、自分は指導者としてまだまだ未熟だと、ソロモンは自覚していました。それでソロモンは主に向かって 「聞き分ける心をお与えください。」と、必死になって願いました。今日の第一朗読の最後。神はその願いを聞き入れてくださり、聞き分ける知恵、知恵に満ちた賢明な心を与えてくださったと、第一朗読では語られます。

 今日の福音朗読でイエスは、天の国についての三つのたとえを語っておられます。イエスが語る天の国とは、死んでから行くいわゆる天国や極楽のことではありません。つい私たちは、天の国というと日本語の天国と、「の」が入っているか入っていないかの違いなので、「ああ死んでからの世界」と思ってしまうのですが大きく違います。天の国とは神様との交わりそのもの。神との親しい関わりのことです。
  今日のたとえ話しの最初の二つは良く似ています。畑の中に宝を見つけた人も、高価な真珠を見つけた商人も、ともに自分の持ちものをすっかり売り払い、見つけた宝や真珠を手にいれます。つまり、神様と共に生きる天の国というのは、持ち物すべてを手放してでも手に入れたいと願うほどの、貴重で喜びをもたらすものだということです。三つ目のたとえ話しは少し雰囲気が違います。天の国が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を寄せ集める網に似ていると言われます。天の国にはあらゆる魚を集める網のように、すべての人が包み込まれていると言うのです。
 ここで本当に私たち、しっかりとこのイエス様のたとえ話しに耳を傾ける必要があると思います。死んでから行く天国、極楽というイメージで生きたら今日のこのたとえ話し、間違って理解してしまいます。と、言うのはこのたとえ話しの中では、天の国の中には悪い者も含まれているからです。天国、極楽だったら悪い者がいるはずがない。勝手に私たちそう思い込んで、イエス様のお話を誤解して平気で聞いている可能性があります。しっかりと福音を味わいたいと思います。でもこの悪い者とは前の二つのたとえで、持ち物すべてを手放してでも手にいれたいと願うほど、貴著な天の国に気づいていない鈍感な人のことだと、聖書学者たちは解説しています。ですから、悪い者と言われても、つい私たちがなんか意地悪をする人とか、いうふうに思うとこれも違ってきます。私たちが日々出会っている、あらゆる出来事に現れている神の働き。つまり、天の国に気付かない悪い者どもは、世の終わりに泣きわめいて歯ぎしりすることになるだろうと言われます。私たちはすでに天の国を生きているんです。もう私たちの日々の生活の中に神様が働いてくださっているのです。神様が関わってくださっているのです。それに目をつむっていると悪い者だと言われるのです。世の終わりに泣きわめいて歯ぎしりすることになるだろう。私たち、つい子供の頃から極楽の話しを聞いていて、嘘をついたら舌を抜かれるよとか、何かそういう物語、説話の世界に生きていて、ついイエス様の話をいつのまにか、そういう日本の説話の話しとごっちゃまぜにして受けとめている可能性があるのではないでしょうか。
 52節の「天の国のことを学んだ学者」とは、学問に秀でた人と言う意味はありません。そうではなくて、日々の出来事の中に神様の働きが見ることが出来るようになった人のことです。ですから私たち、別に特別な有名な大学を出ていなくても、日々の生活の中で、市場であるいは道端でいろいろな人とおしゃべりをしながら「あっ、神様がここで働いてくださっている。神様が関わってくださっている。導いてくださっている。」と感じることが出来たら、それを感謝することが出来たら、「天の国ことを学んだ学者だ。」とイエス様は今日のたとえ話しの中でおっしゃっているのです。

  第二朗読をご覧ください。パウロは、神を愛する者とは、神のご計画に従って召された者のことだと語ります。私たちが神様に出会させていただき、神様の導きに従って、神様の導きを大切にして生きることが出来るようになったのは、神様が呼びかけてくださったからです。もうすでに、私たちは神様の働きの中で歩み始めています。だから私たちここにいるのです。感謝です。私たちが今ここにいるのは神様が導いてくださったから、召し出してくださったから。
 イエスによって神の支配が始まりました。でもまだ完成はしていません。この世の中には、まだまだ悪が複雑に混じりあって存在しています。ですからちょっとでも油断すると、悪の誘惑に負けてしまいそうになります。こういう世の中だからこそ、パウロは言います。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになった。」のだと。こういう世の中だからこそ、神様は私たちを召し出してくださった。私たちを義としてくださった。そして、義とされた私たちに栄光を与えようと神様ご自身が、今日も働いてくださっているのです。神様は救いの計画を確実に実現しようと、今日も私たちに働きかけてくださっています。洗礼を受けてキリスト者になるように召された者には、万事が益となるように共に働くことが知らされています。
 ですから、体験している様々な出来事の中に、神様の働きを見ていることがとても大切なのです。私たちの日々の生活の中で神様が働いてくださっている。それはどんなことでも良いのです。ちっぽけなことかもしれません。でも「あっ、ここに神様が働いてくださっている。」人との出会い、あるいはお花、大自然の営み、いろいろなことの中に神様が働いてくださっている。そして、今日私たちがここにこうして集まっているのも神様の働きです。
 なぜ私たちは今日ここにいるのでしょうか。神様が呼んでくださっているからです。私たちの仲間のなかには来たくても来れなかった方々がいらっしゃいます。その方々のことを思いおこしましょう。突然朝になっておばあちゃんの具合が悪くなった。ミサに行きたい。でも、ミサに行くよりもおばあちゃんの世話をすることを優先する。だから今日、ここに来られない方がいらっしゃるかもしれません。周りを見まわして、「あっ、いつもいらっしゃる方が、今日はいらっしゃってない。」そしたら、その方の分も私は祈らなくちゃ。その方のいろいろな事情のために、「どうか神様、私がいただいている恵みを使ってください。」と差し出していく。御ミサのときにパンとブドウ酒を献げていく時に、そういう私たちの頭を使って、わたしたちの普段のつきあいを思いおこし、それは信者だけではないです。ご近所のおじいちゃんのことであったり、職場の最近、何かうつ状態になっている仲間のことだったり、いろいろなこと全部思いおこして、私たちの日々の生活の中に神様が働いてくださっている。それを思いおこすために、神様が私たちを今日ここに呼んでくださいました。

 わたしたちが日々体験している様々な出来事の中に、神様の働きを見、ソロモン王と同じように「聞き分ける知恵、知恵に満ちた賢明な心を与えてください。」と心から願い、もうすでに始まっている天の国、でもまだ完成していない、その途中で神様が「おい、手伝って!」と呼びかけられて、私たちはここに集まりました。「こんな私でよければ手伝います。」と、新たな決意を持って、希望を持って祈って参りましょう。』




2017年7月23日日曜日

7月23日(日)年間第16主日

今日のみことばは「毒麦のたとえ」でした。
私たちの心のうちには"良い麦"もあり"毒麦"もあるのではないでしょうか。
最後まで忍耐強く待たれる神の慈しみについて黙想しましょう。

今日のミサは勝谷司教様の主司式でした(共同司式:後藤神父様、佐久間助祭)


佐久間助祭と蓑島神学生のお二人が夏休みで帰札しました。
ミサの後、お二人からご挨拶がありました。



司教様のこの日のお説教をご紹介します。

『今日の福音のたとえを皆さんはどうお読みになったでしょう。終わりの日に毒麦は焼かれ、麦は倉に入れられる。これを終わりの日の裁き、あるいは個人的な回心を求めるたとえと思ってはいないでしょうか。確かにそういう部分もあります。最終的に私たち善人が報われるのだという希望を与えてくれるメッセージでもあります。
 しかし、今日の福音のポイントはむしろ、それとは逆のことを言っているのではと私は解釈たいと思っています。たとえ悪人であっても、神は忍耐をもってご覧になり、第一朗読にあるように裁きではなくて、寛容と慈悲をもってお臨みになられます。この箇所を個人主義的に読めば本来の意味を見失ってしまいます。今日のメッセージは書かれた当時に、そして現在に共同体に向けられたメッセージです。この話しを私たちの社会や教会共同体にあてはめて考えてみてください。何故、あんな人がいるのか。この人さえいなければ。私たちは自分勝手な好みや独善的な正義感で人を裁いてしまう傾向があります。そして、それが多数派になれば、その人を排除しようとする動きも出てきます。毒麦を抜こうとする僕の姿は、このように私たちの共同体にも良く見られることです。
 しかし、福音にも書かれているとおり、実際は毒麦と麦の区別ははっきりとつきにくいのです。アゥグスチヌスやフランシスコなどは、私たちの知るそのほか多くの聖人たちも多くは、始めのうちは多くの人々から毒麦と思われていた人たちです。実際、誰が自分は神の倉に入れられるように出来るかと言えるのでしょうか。むしろ、自分を良い麦と考え、人を毒麦だと断罪し排除しようする者こそ、イエスが神の国から遠いとされたファリサイ人と、同類とあると知るべきでしょう。私たちのうち、だれ一人として完全な善人や絶対的な悪人はいません。すべての人の内に、毒麦も良い麦も存在するのです。すべてを善か悪か、白か黒かはっきりさせて裁いてしまおうとする態度は、イエスが批判した律法学者の態度なのです。
  そう考えると、終わりの時に焼かれる毒麦のたとえは恐ろしい裁きではなくて、むしろ喜ばしい救いのメッセージであると気付かされます。誰かが裁きを受けて焼き滅ぼされるのではなく、すべての人の中にある毒麦が取り除かれるのです。焼き尽くされるのは私たちの中の愛に反する心で、この炎を通して私たちは純粋な愛の世界へと導き入れられるのです。自分の力では克服出来なかった悪への負担、罪の現実が神の愛の息吹と炎によって、籾殻のように吹き飛ばされ焼き尽くされるのです。残るのはキリストを中心として、完全な愛の交わりに生きる私たちなんです。       
 今日の福音を単純な完全調和のたとえとして考えるのではなくて、私たち一人ひとりの心の中に見極める神の私たちの思いを純化し、神の愛において純粋なものなるように祈りながら、ごミサを捧げて参りましょう。 』

2017年7月16日日曜日

7月16日(日)年間第15主日

今日のみことばは「種を蒔く人」のたとえでした。
イエス様からいただいた"種"。私たちはどんな実を結ばせることができるでしょう。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日のみ言葉は、最初の一節から映画のシーンを見ているようにイエス様の姿が浮かんできます。群衆が取り巻き、その背景にはガリラヤ湖畔の緑豊かな畑も目に浮かんでくるようです。そして、その向こうには羊の群れが無心に草を食む光景や、舟が浮かぶ湖の湖面の波も眺められるような気がしました。
状況はまったく違いますが、イエスが2000年前に話された話を、私たちが今日ここで聞いているという不思議さも感じています。イエスが今日語られたのは「種まき」の話ですが、場所も時間も超えてたった今、私たちは聖書をとおしてその話に耳を傾けています。
皆さんの心にはどのようにイエス様のことばが届いたでしょうか。

パレスチナの自然、その湖の周りは大地が広がり、緑の草や木が豊かに生い茂る自然の姿がありました。地を耕すと、すぐに土の香りが広がる世界が、彼らの生活・現実でした。
耕す土地は、良い土地もあり、悪い土地もあり、また石だらけの土地もあるようです。だから種を蒔いたとしても、どんな土地に種が蒔かれるかによって、たとえ芽を出しても、その成長や収穫も大きな違いとなってしまうというのが今日のお話です。
一方時代を超えて、このみ言葉に耳を傾けている私たちですが、実際に土を耕したり、種を植える生活をしている人はほとんど少ない現状だと思います。種が芽吹いたり成長する姿を見ることもまさに稀なこと、スーパーや店に並ぶ立派に育った見栄えの良い野菜等を手に入れるだけ、それは幸いなのか不幸なのかということを考えます。

もし、イエス様の語られるみ言葉が"種"だとしたら、そのみ言葉を聞き、受け入れる人の心が土地であるというのを、今日のたとえから私たちは考えることができます。イエス様のみ言葉が"種"、その種を私たちは心に受け止めて、どんな心の中に種を植えているでしょうか?種はうまく芽を出しているでしょうか?私たちは成長させて、実り、収穫を手にすることができるでしょうか。聞く人の心が「良い土地」、「悪い土地」、そして「石だらけの土地」ということが考えられそうです。私たちの心はどんな種類の土地になっているでしょうか。
実を結ぶ種であったとしても、道端に落ちたか、石だらけの土地、土が薄い土地に落ちたか、または茨の中に落ちたか、それによって決定的な違いが生じてきます。いくら実を結ぶ種であっても、どんな心の中に受け止められたかによって、実り方も違ってくる。イエス様のたとえの後半では、種が育ったときには、3種類の収穫があるという話をされています。同じ種からでも収穫は30倍、60倍、100倍とそれぞれ違いがあるということを話されています。
まさに自分に置き換えて考えてみるとき、私たちが受け止めた恵みの種はどんな実を結ばせているのだろうかと、考えざるをえません。心が曇っていたり、鈍っている人には、神の奥義は理解できないだけでなく、み言葉そのものさえも受け入れることができないとも言われます。
私たちは日曜日ごとにみ言葉に耳を傾けていますが、キリストの言葉を受け入れ、それを悟るためには、心の貧しい人、小さな人、素直な人、謙虚な心を持たなければならないというところに、私たちはどうしても辿りついていくようです。

イエスの話は、そのような意味で、私たち一人ひとりの決意、覚悟によって、随分と違ったものになっていくということにもなります。
心に蒔かれたものをすぐに奪われてしまう人、苦難や災害にすぐ躓いてしまう人もいる、また、この世の思い煩いや富の誘惑に負ける人がいる、一方、み言葉を聞いて悟る人もいる、というように聞く人の違いが強調されて、今日私たちに語られています。
種よりもむしろ心の状態、土地の肥沃が大きく影響するということだと思います。それはすなわち、私たち自身の心にかかっていることを悟らせる話になっています。
私たちはその話を聞きながら、群衆がそのことを理解することができただろうか、とそんな心配もしています。

結論としては、多くの実を結ぶ最善の方法は、キリストのみ言葉を素直に受け、聞き入れること。そして実際の生活の中で、忠実にそのみ言葉を実践することが大切である、ということになるかと思います。よく私たちは霊的な実りという言葉を使うことがありました。霊的な実りとは、聖書を読むこと霊的な読書をすることとも繋がっていましたし、より良い熱心な祈りを捧げることでもあります。霊的な実りを結ぶということは、聞いたり、見たりしている私たちの決意にかかっているのではないでしょうか。

イエス様は話されています。たとえ失敗が続いても、神の国の働きには必ず希望が与えられること、信仰は必ず報われるということを諭してくださっています。私たちは弱く罪深い一人ひとりであるけれども、神に信頼しながら今日の共同祈願の答唱にあるように「神よ、あなたの道を歩ませてください」と祈り続けることが大切になってきます。
神に信頼し、私たちがその使命に応えることができるように、今日もまた心を合わせて祈りたいと思います。』

2017年7月10日月曜日

7月9日(日)年間第14主日

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
このイエス様の言葉は人々をやさしく包み込む言葉です。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『平日のミサはこの北一条教会は、朝と晩の時間に行われていますが、水曜日だけは午前10時のミサが行われています。今日はその時の様子を皆さんにお話ししたいと思います。10時のミサの後で時間のある人たちはカテドラルホールに集まって話し合いを行っています。その話し合いのテーマはいつも決まっていますが、それは日曜日に聴いた聖書の言葉をもう一度ゆっくり読んで黙想して、話し合いを始めましょうということになっています。ですから水曜日の日は、その週の最初の日曜日に読まれた福音を、そして説教を思い出す方は、説教も含めて分かち合いに入っていきます。自分が思っていること、感じたこと、 そんなことをみ言葉と関係させながら、時にはある人は聖書の言葉がちょと分からないとか、疑問に思います、そういうことも話されますが、そういう分かち合いをしながらお昼まで過ごしています。

  先週(日曜)のみ言葉でこの水曜日に話し合いをしましたけれど、先週(日曜)のみ言葉、一週間過ぎましたが皆さんは思い出しますか? 先週の日曜日に聴いた福音、出だしはちょっとショッキングなイエス様の話しがあったと思います。ショッキングに受けとめた人もいれば、そうでない人もおられたと思います。どんな(ショッキングな)話しだったかなと今、皆さん 思い起こそうとしておられます。イエス様はこんな話しをしたんですね。「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。」「息子や娘を愛するものもふさわしくない。」さらに「自分の十字架を担って従わないものはふさわしくない。」ふさわしくないと言う言葉を3回続けて、どんなことがふさわしくないか話されたのが、先週私たちが聴いた聖書の言葉です。きっと、皆さんの中にもこのお話を聴いて、愛する家族を持つ皆さんにとって、多少なりとも困惑を感じた方がいたかもしれません。人に自慢出来る信仰ではないにしても、自分の家族よりもイエス様の方を愛することが大事であると、信仰において考える人はたくさんいると思います。でも、イエス様、神様を愛することは、何よりも大切と頭では分かったつもりではいても、家族も愛もまた大切だと。そういう現実の中で、どっちかを選ばなければならないとすれば、まさにイエス様のお話は困惑を感じさせるお話だったのではと思います。
 どちらを選ぶか。イエス様を選ぶか、家族を選ぶか。もしそういう選択、どちらかを選ぶように聖書の声が聞こえたとしたら、困惑した方が多いかもしれません。水曜日には、そうしたことも含めて分かち合い、話し合いが進んでいきました。自由に話し会う中で、ほかの人の考え方に耳を傾けるときに、固まってしまった自分の考えにも理解にも、また自分の考えているその世界にも、少しその柔らかさが入ってきます。また、その世界が少し広がるような思いでほかの人の話に耳を傾けることができます。ほかの人の話を聞いていると 自分が気付かなかった体験を持っている人もおられて、そういう話しが耳に入ってきます。心に響きます。ああ、そうか。そう言う意味合いにもとれるんだなと分かってくると、必ずしも自分の考え方がにっちもさっちもいかない思いでいたものが、そういうふうにも考えられたらこのみ言葉は、もっと深い意味があったと気付かされて、そっちが大切だということにも気付かされます。イエスが話された大切の教えが見えたとき感じられたとき、心の中の不安や困惑も少しずつ消えて薄らいでいく、そんな思いになることが良くあります。

 私は皆さんとの分かち合いの中で、神が何よりも大切という、そういう希望を生きた殉教者について少し話しをさせていただきました。それは、日本の26聖人の中にいた、子ども達の殉教者の信仰でした。皆さんもご存知のように、26聖人の中には3人の十代の子供がいました。19歳の人がいましたからその人を入れたら4人になるかもしれません。(19歳と比べると)もっともっと若い3人の子供もいたのです。一人は12歳の最年少のルドビコ茨木。長崎のアントニオといわれる13歳の子供もいました。そしてトマス尾崎という14歳の少年もいました。トマス尾崎は自分が殉教し十字架に架けられるときに、お母さんに手紙をしたためたそうです。その母への手紙はあまりにも有名な話しです。その手紙の一節にはこのように書かれています。「臨終には十分に罪を痛悔し、イエスキリストの幾多のお恵みを感謝なされば救われます。」お母さんに宛てた手紙でこのように触れた14歳のトマス尾崎がいます。そして十代の子供が十字架に架けられるとき、母親を前に私のことはご心配くださいませんようにと声をかけたと言います。そして、特にトマス尾崎は2人の弟がお母さんのもとにいて、自分たちを見つめたそうですけれど、二人の弟もよろしくお願いしますと、お母さんに手紙でしたためていたといわれます。こんな十代の子供の信仰を考えて、私はこの信仰こそ本当に家族の愛よりも、神様の愛を選択したのだろうと強く感じています。そして一人の少年はお母さんに天国で会いましょうと叫んで十字架に架かったといいます。そういう記録、手紙が残されています。特にトマス尾崎の母への手紙はあまりにも有名で、私たちに感動をもたらします。「私よりも父や母を愛するものは、私にふさわしくない。」というまさにそういうイエスの言葉をそのまま生きた信仰がそこにあったということで、殉教者の栄誉に向かったのだと思います。
 そういう意味で分かち合いをしているときに、自分たちが気付かない中に、たくさんの信仰を見ることは出来ます。感じることができます。そういう分かち合いが行われています。神を愛すること、だれもが大切だと思ってはいますが、現実に自分の妻や子供のことを考えたときに、どちらかというとそちらを大切にして選択してしまうこと多いかもしれません。分かち合い全体の中では、神様の愛が何よりも第一にあって、そして私たち家族への愛も生かされているというお話をされました。この世をこえて永遠の生命の世界に行きつくときには、だれもがきっとイエスこそ希望の光であり、そのことをだれもが願って死に向かう、そんなことを考えます。そう思いながらも現実には、この世の愛を、家族の愛を私たちは選んでしまうことが多いかなと思います。

  今日、そういう中でイエス様は私たちに告げます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」このイエス様の言葉は人々をやさしく包み込む言葉です。心にやさしく響く言葉です。疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。私たちはこういう言葉を家族の者には言えるかもしれません。でも家族以外の者にこういう言葉を責任をもって言えるかと考えると、簡単に言える言葉ではないと思います。でも、イエス様はすべての人にこういう言葉をかけて私たちを導いてくださいます。イエス様であるからこそ、無制限に無差別に言えた言葉だと私は思います。気持ちはあったとしても責任をもって、こういう言葉をだれにも言えないと私自身考えてしまいます。でもそうなりたいと心から願います。イエス様の愛と教えは、私たち人間の弱さと限界をはるかに超えたものです。
そして、私たちが持ってるエゴとか欲望のかげりがないのが、イエス様の愛の心だと言えると思います。私たちが真実の愛を知るとき、愛する人を喜ばせるために夢中になることができます。そして苦労をものともせずに働くことさえもできます。そういう体験を持っている方もたくさんおられると思います。でもその愛する人はだれにでも与えられるかというと、愛を私たちは考えてしまいます。家族であるからこそ、子供であるからこそ、労苦を惜しまずに働いて
愛を捧げることができるのだと思います。
  今日のみ言葉を黙想していると私はこう考えます。大人になるほど純粋な愛が、私たちは失われていくだけです。イエスは父なる神を、幼子のようなものとして示されたとありますが、もし自分のエゴとか欲望にかられると、神の愛は少しずつ遠くなっていくということになるような気がします。私たちのエゴとか欲望を超えない限り、神の愛にさらに近づくことは難しいと思います。それが幼子のように神の愛、父なる神を示された言葉のように私は思えます。
 
 すべての人を見つめ続けて愛し支える力は神のみであり、またイエスに見る愛だけかもしれません。だれにでも私のところに来なさいと呼びかけるイエスの愛こそ、私たちが目指すべき
愛ということになると思います。この私たちには難しいと思われる愛を見つめながらも、そこに近づいていくことが出来るように、今日もまた主の祭壇の前で、一致して祈り続けた地と思います。』

2017年7月2日日曜日

7月2日(日)年間第13主日

今日の「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」というイエスのみことばには、「家族をも含むすべての人を大切にする愛に向って生きなさい」というメッセージが込められています。

後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日のみ言葉は、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」ということばで語られました。
大切な家族を愛することがふさわしくない、とはどういうことなのか?と疑問が感じるのではないでしょうか。
自分の信仰は大丈夫なのか?と考える人もいるかもしれません。

イエスがまず話されたのは、弟子たちを宣教に遣わすにあたって、世の中の厳しさ、そして迫害が起こると予想したイエスが、「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と既に話していたことと関連した話で展開します。み言葉を述べ伝えようと強い使命を持って世の中に出ていくときの弟子たちの心境の中に励ましを与える、そして大切なことは何なのかということを教えようとした、そのような背景もしっかりと理解しておきたいと思います。
先週のみ言葉の中でも「恐れるな」ということばを何度も繰り返したイエスでした。弟子たちに対する教えの結論のように、今日のみ言葉は大きく分けると前半と後半にそれぞれ特徴がみられます。特に前半の話をよく黙想し考えながら、私たちに勧められていることはどういうことなのか、そのことを思い巡らしたいと思います。

「隣人を愛しなさい」「敵をも愛しなさい」と言われたイエスの教えを思い出すとき、何よりも私たちは家族への愛も大切に考えます。でもそういう愛を考えていると、「私よりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない」と言われるイエスのことばに、困惑と慄きを感じてしまうのは少なくないと思います。神の愛も大切である、だけれども自分の愛も大事だとするならば、イエスの教えは私たちにとって、矛盾することになってしまうでしょう。神の愛、人間の愛、自分の愛、どちらも大切だとしたら、優劣が付け難いとしたら、私たちはどちらを取ろうとしているのでしょうか。そこに私たちの驚き困惑もあるかのようです。

まず、宣教に遣わす弟子たちの基本的な姿勢には一体何が一番大切なのか、ということが教えられています。その条件として、第一に「神の愛」が弟子たちに強調されました。神の愛は、自分の愛よりも家族への愛よりも第一であると、イエスは弟子たちに気付かせます。私たちは弟子たちにだけでなく、イエス自身がそうした生き方を私たちに示されたことをよく知っているはずです。イエスが御父から託された使命を果たすために、また私たち一人ひとりを救いへと導くために、イエス自身はどんな生涯をおくられたでしょうか。
イエスは私たちの救いのために、私たちに対する愛のために受難を受け止め、そして十字架で苦しみを受けながらもその死を受け入れました。十字架を担い、従い、その死さえも受け入れたのがイエスご自身であるということ。そのイエスを見つめながら、イエスのことばを理解しようとするとき、厳しいことばではあってもその真意を私たちは理解することが出来るような気がします。
イエスは私たちに問いかけます。「あなたがたはわたしを受け入れるのか?わたしを受け入れないのか?」まさにそのどちらかを選ぶという厳しい選択が迫られる教えが、今日のみ言葉の中にあるわけです。受け入れるのか、受け入れないのか、そのどちらかであって中立は無いというのがイエスの教えです。イエスの真の弟子となって、宣教に出かける弟子の条件としてのクライマックスが今日のお話となっています。そしてその条件が、今日のみ言葉の中でも語られる十字架によって表されるのです。

愛する家族をないがしろにするような教えと、もし受けとめるとすると、私たちは前に進むことが出来なくなってしまいそうです。イエスの教えはこの世のものを追い求めるものではなく、まず第一に神のことを追い求めるようにという教えです。
洗礼を受け、神の子となり、キリストの弟子となった私たちは、何を差し置いても神のことを求めなさいと、そう教えているのと同じだと思います。それはまた、愛を極めるということでもあると言えます。愛を追求しなさい、愛をよく考え、愛に向って生きなさい。愛というのは、自分のことだけを考えるものではないはずです。そう話されているような気がします。愛とは他者のことを考え、他者のために奉仕していくことも愛であるということを話されていると思います。
それは家族のことを抜きにするということではなく、家族をも含むすべての人を大切にする、もっと広く言えば、全人類をも大切にする愛に向っていきなさいということだと思います。イエスはその愛のために、十字架に上られたということです。ですから、神に従うこととは、家族をも愛し、大切にしていくことと同じです。
今日の一見厳しいかのようなこのみ言葉を祈りをもって黙想するとき、時に感じることはたくさん浮かんできます。私自身もその使命を考えると、自分のことではなく、教会のため神のため、人々のためにという想いで生きようとしたはずなのに、どこかでそれよりも自分のことを中心に「自己愛」、自分のことを優先することに向って考えてしまうことがたくさんあります。そういう想いはきっとキリストへの愛を引き離すということかもしれません。自分の思い、自分を優先する心を超えて、イエスの示された愛を生きることがどんなに大切かと分かったつもりでいても、必ずしもそう生きられない現実がここにあるはずです。きっと同じ思いを皆さんも体験していると思います。

イエスは「自分の十字架を担ってわたしに従いなさい」と話されます。
この自分の十字架は、時に困難であることを考えてしまいます。でもこの十字架をもう一つ深めて進めて考えるならば、「自分の責任を担って」という言葉にこの十字架を解釈することも出来るのではないでしょうか。自分に課せられた十字架は、自分の責任を担うということでもあるかのように思います。
この聖堂が建てられて「献堂100年」を昨年お祝いした私たちです。私たち一人ひとりもまた、「次の世代につなぐ」という責任をどう生きているか、そのことも考えてみたいと思います。自分の十字架を背負って、神のため神の愛のため生きるということの重さ。でもそこからきっと、大きな喜びも生まれてくるような気がします。

今日のみ言葉の後半では、小さい者の一人に対してもし支援の手を伸ばすときは、必ずその報いを受けるということが話されます。その話は今日私たちが聞いた第一朗読の列王記とも関連する話になっています。でも、利益を前提として親切にしなさい、ということでは決してありません。平凡で取るに足らない「水一杯」の親切にでさえ、神はそれに報いてくださる、そのことが話されています。何かを頂くことが出来るからこれをするということでは決してありません。

キリストと共に生きようとする私たち一人ひとりが、「神こそ永遠のいのちのことばを持っておられる」そのことを信じて歩むことができますように。
また、教会に対して問題意識を常に持ちながらも弟子たちのように福音を証していくことができますように。聖霊の導きと照らしを祈り求めましょう。

昨日は「福者ペトロ岐部司祭と187殉教者」の記念日になっていました。2006年に福者に上げられた188名の殉教者たちが私たちの教会でお祝いされるようになりました。188名のうち聖職者は、わずか4人でした。他は農業や漁業に従事する貧しい一般の人々でした。日本の教会では九つの教区にわたる殉教者が福者に上げられたということです。新潟から九州まで当時様々な迫害の中にあって、神のために神の愛のためにいのちを捧げた人たちが福者に上げられたということでもあります。私たちもそのような福者の愛、聖人の愛をもう一度心に留めながら、その愛に応えることが出来るように祈りたいと思います。』

2017年6月27日火曜日

6月25日 年間第12主日

日々の生活の中でも、私たちは様々な”恐れ”を感じているのではないでしょうか?
イエスは「恐れるな」と私たちに寄り添ってくださっています。

6月24日(土曜日)に聖堂で行われた平中弓弦さんのオルガンリサイタルには、250名というたくさんの皆様にご来場いただきました。
ありがとうございました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『暦の上では先週の21日、夏至を迎えています。夏至を迎えると日が少しずつ短くなることを考えます。6月もまもなく終わりますが、この週末からは7月を迎えることになります。本格的な夏が北海道にもきたということだと思いますが、半年を過ぎるなんだと思いを深めています。夏が近づくなかで教会の庭にそびえ立っているケヤキ(欅)の木を眺めていると、木々にわたる風も夏だろうと感じています。欅の葉がしっかりとした緑の葉に変わり、濃い緑色に変わっているのも感じます。自然の力、そうしたものがたくましく感じられる、、羨ましくも感じるケヤキの木です。
 それは何故かと言うと、今日のみ言葉から少し思いおこしてみたいです。テレビや新聞の情報から目を放せない状況を送っているのは私だけでしょうか。きっと皆さんの中に毎日そうした情報、ニュースを聞きながら一喜一憂しているのではないかと思います。そこには様々な事件や事故のニュースが伝えられてきます。ミサの祈りでは永遠の命に招くイエスに導かれるように祈りを捧げます。そして。イエスの教えを思いおこしながらその教えを生きようとしています。にもかかわらず、時には平和からほど遠い現実を思いしらされます。今朝のニュースだったと思いますが、中国の四川省で土砂崩れがあって120名ほどの行方不明者が出て、すでに数名の方が救出されたようですが、そういったニュースを今朝見ています。夏が来るとそういった大雨の被害が今年もあるだろうかと、心が留まっていきます。平和からはなかなか遠い私たちの世界ですが、私自身平和を思いおこしながらミサの中で祈りを捧げていますが、自分の小さな過ちを繰り返してしまう、そんな日々を見つめてしまいます。

 今日、皆さんは主日のミサに来られ聖堂に入り、どんな祈り、意向を捧げようとしていますか。皆さんは日常のニュースを聞きながらどんなことに心を向ける毎日でしょうか。今日のみ言葉。「恐れてはならない」「恐れるな」「恐れなさい」と3度、イエスは繰り返し弟子たちに命令します。「恐れてはならない」「恐れるな」「恐れなさい」このみ言葉はイエスが弟子たちに世の中に宣教するために派遣するときの言葉です。私は自分自身が様々な情報に触れて、時に共感して笑みを浮かべ喜び、また悲惨なニュースに胸を痛み悲しんだりしています。
 「恐れるな」という今日のみ言葉をかみしめているうちに、皆さんもきっとご存知だと思いますが、若くして癌で亡くなられた小林麻央さん。そのニュースを皆さんも心に留めていたと思います。若くして癌の告知を受け、乳癌という病に立ち向かって闘病生活を前向きに生きた小林麻央さんのことが報道されていました。報道では力強く人生を歩んだ女性でありたいという思いから、また子ども達にとって強い母でありたいという思いもあったそうです。さらに、
病気の陰に隠れている自分とお別れしたいという決意もあって、この小林さんは幼い二人の子供を案じながら、家族への愛と日々の病状を素直にブログに発表して、同じ病いに苦しむ人たちに大きな勇気を与えていたというニュースでした。重い病気を考えると内にこもりがちな私たちです。でも、この小林さんは悲惨な病気をかかえ痛みに苦しみながらも、明日への希望を見失ないそうな状況にあったとしても、勇気を振り絞って最後まで生き抜いた、そうした姿もニュースで伝えられています。病いの苦しみの中で最後まで愛を見失うことなく、 生きた人として称賛の声が集まっているということです。若くして乳癌という、そして全身にそれが 広がってしまったという状況の中で、二人の幼い子供のことを思いながら、本当に前向きに その病いと戦い続けたというニュースに本当に心が痛みました。どこからそのような力が与えられたのでしょうか。愛があった、そんな思いでそのニュースを受けとめていました。「恐れてはならない」そういう言葉も当てはまる、この病気で戦った小林さんの最後の生き様に接しました。

  今日のこの「恐れてはならない」というみ言葉を黙想していると、もうひとつ私は教皇フランシスコの姿にも及んできました。先週、実話に基づくというフランシスコも映画を観てきました。タイトルは「ローマ法王になる日まで」でした。日頃、私はカトリック新聞をみながら、そして様々に伝えられる教皇様のメッセージを読みながら、これまでの教皇も素晴らしい教皇様でしたが、フランシスコ教皇は本当に貧しい人に思いを寄せて、メッセージを発し続けている。正義のために果敢に立ち向かっていく、そうしたメッセージがいつも強く感じられていました。弱い人たちへの慈しみと愛の言葉が常に溢れているメッセージにいつも驚いていました。その理由は今回映画を観て実感されました。けっして教皇になったからそうされているのではなくて、フランシスコ教皇は若き日から愛と希望への情熱が、今の教皇様にも続いていることなんだということが、映画を観て実感出来ました。教皇様は1960年から70年代、アルゼンチンの軍事政権による圧政の時代、弾圧に負けることなく、苦しむ人たちに協力を惜しみなく捧げて生きておられた。若い司祭で責任ある立場におかれて、そういった弾圧と戦い続けたということが映画でも描かれていました。そうした教皇様の生き様が、今日の教皇様の姿とまったく変わりなく重なっているんだということを確認しました。また、映画の中では悩み苦しむ日々、若き日の教皇様も多くの悩みを抱えながら、社会の人の平和のために、救いのために活動していましたけれども、映画の中では結び目を解くマリア様のシーンがありました。とても印象的でした。ひとつの信心業がそこに見られましたが、無力さ、涙、苦しみからの解放を望む庵としてその信心業は今日、広がりを見せていることにもあるようです。結び目を解く聖母マリア様は、うまくいかない人間関係や心の中のモヤモヤなど、もつれた問題を解きほぐす願いを聞き入れてくださる信心業のようになっています。私たちも心の中にたくさんの結び目をもっているのではないでしょうか。様々な困難、様々な苦しみ、そうしたものが私たちの心の中に結び目として存在していると思います。そうした苦しみや悩みや無力感が、自分ではなかなか解きほぐせないその結び目を、マリア様への祈りをとおして解いてもらう。そういう祈りが映画の中でも紹介されていました。

 教皇様の祈りやメッセージからも、すでに恐れることなく信頼して祈ることの中に、神の力が及んで来るんだという姿勢と信仰を私たちは見つめます。私たちは特に病気をしなくても健康であったとしても恐れがないわけではありません。恐れはいろいろな形で心の中に芽生えています。皆さんの心の中にはどんな恐れが今あるのでしょうか。恥ずかしさも、人からさげすませることも、笑われることも時には私たちの心の中に恐れをよび起こしていきます。また、反対されたり無視されたりしても感情的に恐れが心の中に生じてきます。おどおどして積極的に人と関わることが困難な状況をつくってしまいます。
 今日のイエスの言葉は人に対して、神様に対しても恐れを指摘しています。そして、今日のみ言葉は、その恐れは弟子たちに対する迫害や困難を予想して話されているみ言葉です。でも今、私たちの信仰の中で、自分の心の中を見つめるとき、恐れを抱くという感情の難しい問題にも直面するのではないでしょうか。私たちのその恐れを解いてくださるように、私たちも祈らなければならないと思います。努力しながら、お互いのことを受け入れ、理解しあい赦し合っていくことが、まず何よりも大切だということを、今日のみ言葉は私たちに伝えているようです。
 「恐れるな」イエスは私たちにも語りかけます。神のたくましさ、力強さ、そして神の慈しみの中にある自分たちを思いなさい、考えて見なさい、そう言われているような気がします。
そして、神の愛に守られていること、固い信仰に固められていく自分をもっと感じたいと願います。今日の福音、み言葉の後半に告げられている言葉があります。「私も天の父の前でその人を私の仲間であると言い表す。」雀よりも大切にと、愛を注いでくださる神の愛に応えたいと思います。そして、互いに愛し合う共同体になるためにも、恐れを信頼に変えて歩むことが出来るように聖霊の導きと照らしを祈り求めたいと思います。

【結び目を解く聖母マリアの祈り】

聖母マリア 神の臨在に満ちた方
あなたはご生涯を通じて、まったく謙遜に御父のみ旨を受け入れ 悪魔さえもあなたを罠や誘惑に陥れることはできませんでした。
あなたはすでに息子イエスと結ばれ、私たちのすべてのもつれを 解いてくださり、単純かつ忍耐強く私たちの人生に絡み合った結 び目をどのように解くのかを身をもって示してくださいました。
あなたはいつも私たちの母として、主イエスと私たちを結ぶ絆を 示してくださいます。

聖母マリア 神の母 私たちの母
私たちの人生のもつれ、結び目を母の心で解いてくださるあなた のみ手に委ねます。私たちを苦しみや不安から解放してください。
あなたの取り次ぎによって、あなたの模範に倣うことによって 私たちを悪から解き放ち、私たちと神との交わりを妨げる結び目 を解き、不安、過ち、誘惑、すべてのものから解放してください。
あらゆることのうちに主イエスと出会い、主に心をとめ、兄弟姉 妹のうちに、いつもイエスに仕えることができますように。
アーメン』

2017年6月18日日曜日

キリストの聖体

「キリストの聖体」の祭日を迎えています。
ご聖体をいただき、わたしたちと共同体はキリストとひとつになります。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『聖霊降臨の祝日が終わってから、教会の典礼は「年間の季節」に入りましたが、先週の「三位一体」、そして今日の「キリストの聖体」と祝日が続きます。

聖体は、キリスト教の信仰に欠かすことのできない秘跡であり、ミサに深くつながっています。聖体はミサそのものであるとも言えるような気がします。
私たちが現代、一般的に「ミサ」と言っていることばは、様々な変遷を辿って今日に至っています。もともとは、キリストが亡くなった直後ではイエスの教えや聖書のことばを中心とした「みことばの祭儀」が祈りとしてありました。そしてさらに、最後の晩餐を記念し、イエスとともに食卓をかこむ「感謝の祭儀」であったといわれます。
今日では聖書を中心にした「みことばの祭儀」と、祭壇を中心として最後の晩餐を記念する「感謝の祭儀」が一つになって、一般にミサと言われるようになっています。教会のいのちの源泉であるその典礼をかつて「エウカリスチア」と呼んでいた時代があります。エウカリスチアは聖体祭儀とも言い、聖体を表すことばとして使われていた時代もあります。
教会のカテキズムによると、聖体の秘跡の説明をエウカリスチアである「聖体」によって共同体とともに、洗礼を受けた者はキリストの奉献にあずかることになるとも説明しています。聖体と切り離すことのできない「ミサ」は、かつてはイスラエルの信仰の民にとって忘れることのできない旧約時代の「過ぎ越しの食事」を記念する重要な儀式でした。私たちは聖週間に入ると出エジプト記の聖書朗読をとおして、この過越しの出来事を記憶します。もちろん、今日でもユダヤ教では守るべき大切な儀式として定められているのが過ぎ越しの祭りです。最後の晩餐において制定された十字架の犠牲と復活の記念祭儀にかたどるこのミサは、キリスト者にとってまず何よりも大切にされなければならない信仰上の儀式です。
そこには神のいつくしみ、一致のしるし、愛のきずなを表すキリストを食する宴があります。祭壇を中心とする最後の晩餐のかたどりである食事の席(宴)は、様々な意味を表しています。今日まさに、この宴である主の食卓(祭壇)を中心にして、私たちは賛美と感謝の祈りを捧げ、一つになって祈ります。そして主の祭壇の前でキリストのからだである聖体を受け取ることになります。

今日の三つの朗読も共通したテーマが語られていました。神からの恵みであるパンがテーマになっています。キリストのからだである聖体をいただく私たちにとって、一つのパン、一つのからだについて、考えさせられると思います。

日曜日に教会に来てミサにあずかる皆さん、聖体を受ける私たちですが、時には様々なことを考えさせられることがあります。信者の皆さんにとっては、個別には様々な事情があるにせよ、時には聖体拝領さえしていたら、それでキリスト者としての義務を果たしているかのような、そういう人も見られないわけではありません。私たちにとって教会とは、共同体とは、聖体とはどんなものであるのか、ということをもっと深く私たちは理解をしていかなければと思います。そのような信仰を私たちは生きなければと思います。

聖体をエウカリスチアとも感謝の祭儀ともいうという話をしましたが、キリストの奉献にあずかることの意識も大切にしたいと思います。「キリストの奉献」というと難しい表現になりますが、教会に集まることは、共同体としての交わりを大切にするということとも同じ意味合いだと思います。

キリストとひとつになる聖体を私たちはいただこうとしています。聖書のお話のなかにもありました。キリストのからだにつながれたブドウの枝が私たち一人ひとりである。キリストに、その幹につながらなければ私たちは生きていけない、一つになることはできない。キリストのからだにつながれた共同体として、一致を不十分なままにしておいてはならない、ということだと思います。

今日のみ言葉にもありました。「このパンを食べるものは永遠に生きる」「わたしを食べるものは、終わりの日に復活させる」私たちにそう約束してくださったイエス・キリストに信頼して、祭壇の前に近付いていきましょう。キリストの御体である聖体に感謝し、口で拝領し、心や身体でもキリストのみ旨を表して、大切に自分の信仰を生きることができるようにキリストの聖体の祝日にあたって、私たちは今日新たにその聖体であるキリストに養われ一致して、教会共同体の一員としての役割を果たしていきたいと思います。』