2017年12月10日日曜日

待降節第2主日 上杉神父様による「黙想会」

上杉昌弘神父様をお迎えし、主日ミサと黙想会「アドヴェントゥスにこそ“マラナタを”」が行われました。
降誕祭を迎える私たちにとって、心を見つめるよいひと時となりました。


上杉神父様のお説教をご紹介します。

『北一条教会には年に2~3回、聖香油ミサや金祝・銀祝のお祝い、叙階式などでお邪魔し、司教ミサに与っています。しかし、今日、プリンチパーレスと言うのですが、主司式司祭として祭壇に上ると不思議にいろいろな思い出や感慨が蘇ってきました。思えば、北一条教会でミサを捧げさせていただくのは、26年ぶりかもしれません。朝早く9時のミサは久しぶりです。北26条教会は(午前)10時半ですから、ゆっくりしていられるのです。もちろん、二ヶ月に1回花川教会に行くときは9時、手稲教会は9時半など…どうでもよいことですね…。

 私たちは間違いなく、今日、神さまに呼ばれてきました。教会と訳されるギリシャ語「エクレシア」は神さまによって呼び集められた人々、その集会を指します。神さまが本当にいらして、「わたしのもとに来なさい」と。一週間、神なしのこの日本の社会にあって、あなたたちは傷つき倒れているかもしれない、あるいは何を目的に何を望み、自分の生涯を何のために捧げて一日一日を生きるのか、それを見失っているかもしれない。世に染まってはいけない。神に祈らず、神に感謝せず、神を愛さずとも幸せそうに生きている人々を見習ってはならない、と。神は千人に三人といない私達信徒の信仰と祈りを通して、ひよっとしたら滅んだかもしれない地上の生活とこの国、私達の生業(なりわい)を支え、忍耐し待っておられるのでしょう。主の呼びかけに応えて私たちは応えます、「はい。主よ、わたしはここにいます」と。皆さんはこの日本に本当に千人の三人といない中から選ばれ、呼びかけられ、その招きに対し「アーメン(そうなりますように)」そう答えて、今日お集まりになられました。

  ミサは、典礼すなわちレイトゥルギア の翻訳ですが、公務、公の勤めとも訳すことのできる言葉です。わたしたちは神の国の公務員かもしれません。今日ミサの初めで、わたしの思い、言葉、行い、怠りによって度々犯した罪をお許しくださいと祈りました。主語は「わたし」でした。しかし、続く集会祈願の時には(この集会=カハルというのが教会と訳される)、主語が「わたしたち」に変わりました。私ではなく、私たち兄弟姉妹が痛み、病み、心の中の愛の灯が消えそうになる罪の喘ぎを告白しました。それを主がお聞きになって呼んでくださり、今日また神のもとに集まることが出来ました。わたしたち一人ひとりが抱えている重荷によって背が曲がり、その重みに耐えかねている時(重荷で背が曲がる、これが聖書でいう貧しい者=アナヴィ-ムの語源)、その時に主の声を聴く。頭をあげなさいと。あなたの前にわたしがいる。あなたに何が必要で、あなたが何を待ち望んでいるのか。自由か、解放か、慰めか。あなた達一人ひとりに必要なものをわたしは知っている。最愛の子キリストをあなたたちに今日も与えよう。あなたたちがこのミサの中で祝っているのは、我が子イエスがあなたたち一人ひとりをわたしに立ち返らせ、暖め、生きる者になるために、今日も愛によって自分を捨てること。わたしがあなたのために自分の命を捧げるよりも、最愛の一人息子の命がとられることのほうが、どれほど痛いことか。しかし、一人も滅びないこと(これが神のみ旨)、一人も滅びないで生きて感謝するようになる、笑顔であなた方が互いを赦し合い愛し合える心となるようにと、今日もミサの中で我が子は自分を惜しむことなく与える、と。

  第一朗読で慰めよ、我が民を慰めよとイザヤが呼びかけます。この2千4、5百年前の預言は、キリストにおいて今日実現しています。カトリック教会で行われているこの儀式は、単なる儀式に留まらず、主キリストがここにいて、わたしたちに手を差し伸べて、暖かい心で言葉をかけ助け起こしてくださると信じる時に、司祭の身体を通してキリストがわたしたちのもとにおられ、み言葉は実現していると。そう信じています。「慰めよ」と聞いた古(いにしえ)のみ言葉は、今日わたしたちのうちに実現します。わたしたちが心を閉ざされた自分の狭い殻から解放されて、広い心に移され、主イエス・キリストの心をいただくなら、今日いただく恵みと平和、慰めは、人々へのため。わたしたちがいかに愛するか、その道を知らない時でも、この一週間に閉じた心を開き、今日いただく恵みを分かち合わせてくださる。そう信じて、この素晴らしい秘跡に与りましょう。秘跡として訳されている言葉はミュステリオンすなわち神秘です。わたしたちが信仰の目を持って臨むならその秘められた大きな宝、恵み、道が見えるようになる。それがこの一週間、わたしたちが気付くまいと、ともにいらしたイエスが私たちにしてくださったみ業とみ言葉です。この秘跡に与っていきましょう。
  愛する人たち、このことだけは忘れてほしくない。ペトロは第二朗読でそう呼びかけます。
一人も滅びないこと。これが父である神の御心であると。しかし、この言葉を無視するならば永遠の滅びがこの地上に入りこみます。この私、愛する家族、群れすべて滅びないように。主よ、わたしたちに必要な糧をお与えください。

  福音書はマルコの第一章第一節から始まりました。マルコ福音書のイエス像は「神の子」これに尽きるそうです。ですから、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と断言します。この神の子イエスは、第一朗読で語られた小羊であることでしょう。「羊飼いが群れを養い、御腕をもって集めた小羊を懐に抱き、その母を導いていかれる。」父である神にとって小羊のようなイエスをわたしたちに与えてくださいました。わたしたちは最後の信仰告白のときに、キリストのからだとなった聖体を示されこう応えます。「神の小羊の食卓に招かれたものは幸い。・・・主よ、あなたは神の子キリスト。永遠の命の糧。あなたをおいて誰のところに行きましょう。」
  子羊キリストとは、あの出エジプト記の時モーセに率いられてその夜、エジプトを脱出する時に急いで屠られた小羊。その血はイスラエルの家の鴨居に塗られ、そこには災いが過ぎ越して行った。その古事に由来します。災いが過ぎ去りわたしたちを滅ぼさないために、キリストは小羊のように死に渡されました。わたしたちは知っています。災いではなく、神の子の命に生きる幸いをもたらすために、今日キリストはご自分を捧げてくださった。

 円山教会にいたころ、ある中学生が「神父様。あなたをおいてだれのところに行きましょうといつも言っているのですが、だれのところに行くのですか?」わたしは大声で笑いました。「あなたの素朴な質問は本当に正しい。神父さんはじめひょっとしたら大人の人も、ミサが終わったら神様を忘れて誰かのところに行っているかもしれないよね。一週間いっしょに家庭で祈ることも、神さまを忘れて祈らない日もあるでしょう。わたしたちはいつもイエス様に従っていかなければたった一人でこの地上を旅することはできない。その目的地をイエス様はご存知なのです。だからご聖体をいただいて、今日も旅をするためイエス様に従っていくんだよ。」と、お話しすることがありました。

  さあ、もう言葉はよいでしょう。沈黙のうちに、静けさのうちに、わたしたちの心と霊に
近づいてくださる主をお迎えしましょう。あなたこそ私の神。あなたを通していただいた洗礼の恵みによって、わたしたちも父の子、神の子となる。』


御ミサの後、黙想会が行われました。


『どうか皆さん、イエズス様と向かい合うひと時にしましょう。
この一週間、迷ったり、困惑したり、ため息を付くような日々だったのかもしれません。私たちがへりくだって「主よ教えてください」と待ち望んでいるならば、必ず立ち上がらせ元気に笑顔に戻してくださる神の言葉が与えられる、今日それをともに心に蓄え、キリストに一緒に聞いていきましょう。』

典礼聖歌集から、上杉神父様がお選びになった
「あなたの息吹を受けて私は新しくなる」
「主はわれらの牧者」
「主を仰ぎ見て」
を唱え、神父様のご指導により黙想を行いました。

黙想会が終わり、場所を移し茶話会の中で神父様とお話をしました。




2017年12月3日日曜日

待降節第1主日

待降節を迎えアドベントクランツのローソクに火が灯されました。
ミサのあとには馬小屋とクリスマスツリーの飾り付けを行いました。
心を清めてクリスマスを迎える準備をしましょう。


今夜からイルミネーションが点灯します。


今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『教会はいち早く、新しい一年の始まりとなる教会の典礼暦「待降節」を迎えました。新しい歩みの一年を「こころの目を開いてください」と神の御心に従って歩めるようにミサの初めにも祈りました。
今日のマルコの福音のことばの中でもイエスが弟子たちに話されていますが、そこでも「目を覚ましていなさい」と三度繰り返されています。
現代の私たちが眠りから「目覚めなければならない」こととはどんなことでしょうか?
隣人愛を忘れた自己中心主義、利己的な生き方なのかもしれません。キリストへの信仰と愛、そして希望をもって祈ることが新しい一年の始まりの決意にしたいと思います。
今年の「待降節」は、今日から三週間で「主の降誕」となります。幼子イエスの誕生を喜び祝い、愛とやさしさのもたらされた救いが、今や地の果てまで全世界に広がっています。その主の降誕を一人でも多くの人々とともに祝うことができるように。
今日から、一人一人の心にローソクの火を灯すように待ち続けて、周りの人にもその光を分かち、照らしながら信仰の道を歩みましょう。』

2017年11月26日日曜日

王であるキリスト

今週で今年の典礼暦は終わり、来週からは新しい暦とともに待降節が始まります。

待降節第1主日の12月3日は、クリスマスを迎える準備として、馬小屋とクリスマスツリーの飾り付けを行います。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。



『今日のミサには、フィリッピンの巡礼団が多数参加しています。これらの方にも主の豊かな祝福があるよう共に祈りましょう。
  今日のミサで一年の締めくくりである「王であるキリスト」の祭日を迎えたことになります。来週からは、新しい典礼歴(B年)に入ろうとしています。待降節がやってきます。先週の説教の時にひとこと触れましたが、聖書週間は今日で終わります。皆さんはこの一週間の中で、み言葉に触れ、祈ることが出来たでしょうか。聖書を開く機会があったでしょうか。聖書に触れる、み言葉に触れることはこれからも大切なことになります。
 
 さて、イエスの最後の説教といわれる「最後の審判」のことが私たちに語られています。一年の最後の主日を迎える中で私たちは、毎日曜日にイエスと弟子たちの宣教の姿をイメージしながらみ言葉に耳を傾けてきました。そういう意味では、今日の福音はイエスの弟子たちに向けた総決算の言葉とも言えるでしょう。
  第一朗読のエゼキエルの預言で、神である牧者は羊の群れを養い、導くように尋ね求め、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものを滅ぼして裁きのためにくる。牧者はそういう方である、と話しています。 
 神の裁きについては、良くご存知のように新約聖書の一番最後「ヨハネの黙示」で語られています。キリストが万物の王であるといわれているように、最後の日には栄光の座に着かれる王といわれるように、もっとも権威ある審判者として現れています。その方は人の子であり、王であることを今日のマタイ福音書は告げています。歴史の終わり、終末にはキリストがはっきり自らを現される。そして、万物は神の前に膝をかがめる。このとき裁きが行われ、その裁きはもっとも小さい人々に対する愛の行いで裁かれるということも話されています。

  小さな人々。先週、教皇様のメッセージをお話しをしましたが、教皇様も貧しい人のために、世界中で祈って欲しいとメッセージを流され、日曜日はその日に当たっていました。教皇様も聖書からくる貧しい人、小さな人、弱い立場にある人を大切にしましょう。私たちはもっとそういう人たちに向き合っていきましょう。その人たちと共に歩ける、そういう世界つくりあげていきましょう。そういう呼びかけをしています。
 そういうメッセージを心に留めながら、今日のみ言葉を黙想するときに、私たちは一人ひとりの生きざま、行動がどうであったか問われるような気がいたします。キリストを信じ、キリストに従って生きているはずの私たち信者一人ひとりもまた、み言葉が示している裁きの前に立たされ、私は右側に招かれるのだろうか、左側に置かれるのだろうか。私たちは福音をとおして考えざるを得ないと思います。
 主イエスが羊の世話をする牧者としての王であって、御父に全支配を返す僕として私たちは今日のみ言葉を黙想します。そのような中、愛徳について何よりも大切と考えている私たちの行い、行動、日々の生活はどうなっていたでしょうか。王の右側に立つか、左側に置かれるか。真剣に考えると震えがくるような気がします。もう一度、私たちは神の前に、キリストの前に相応しい生き方を考えるようにと、今日の福音は語りかけていると思います。
  十分に理解しているはずの私たちの信仰者としての生き方。何度も聖書の話しを聴き、その内容を理解し、その場面に立たされるような思いを持って、いつもみ言葉に繋がっています。でも、私たちの愛は、私たちの奉納は、考え方は必ずしも神さまの御旨に適う生き方から外れることも度々あります。自己満足や自己の欲望を満たすほうに日々歩む私たちでもあります。   
 王であるキリスト。私たちは王のイメージをどのように捉えているでしょうか。私が子供時代は本や映画やいろんなところで王様の存在が身近だったような気がします。今はピンとこない感覚が私の中にあります。特に日本人はイメージが乏しいような気がします。安倍総理は王とは思えないし、天皇も王様とは見えてきません。一方、外国の国といっても十分理解出来ませんが、王様というイメージは見えてくるような気がします。王様はそれぞれの国、それぞれの民族の中にあったとしても、神さまの御旨を生きる王様はほとんどいないような気がします。テレビで時々、素晴らしいニュースが流れてきます。素晴らしい人の生き方、考え方、行動。そういうものに触れていくと感動sます。よほど私たち神を信ずるものよりも、立派な生きかたをしている。社会のために、隣人のために自分を中心にしてではなく、奉仕する生き方をしている。つい最近のニュースで皆さんも聞いているかもしれません。アフリカのジンバウエで独立以来40年近くにわたって国の実権を握り続けた、英雄として讃えられていた(ムガベ前大統領)が40年経って93歳、世界最高齢の独裁者。その高齢でどこまで仕事が出来るのか。自分の限界を知って52歳の若い妻に権力を与えようと表明したそうです。かつては英雄と讃えられた人が、今の時代では独裁者としか呼ばれない。こんな中、自分の妻に権力を譲ろうとした。国際的な非難も受けていました。そして、自分の地位を降りることを表明しました。国民は大喜びとのニュースが流れてきました。その国の王様のような存在であったといえるでしょう。国民の誰からも信頼できなくなってしまった。今日の福音もいろいろ考えさせられます。

 私たち一人ひとりはどうなんだ。私たちの周りの隣人にどうであったか。人様の非難をしているときではない。政治的な権限を持って国を治める時には、小さい人、弱い立場にある人を軽んずることがないよう努力をしていると思います。すべてにそれを奉仕することは難しいことは誰もが知っています。今日のみ言葉と比較しながら、私たち一人ひとりの生き方をもう一度見つめましょう。私たちの周りから小さき人々の悲しみの涙が少なくなりますように。イエスが話されている「もっとも小さい者の一人にしなかったことは、私にしてくれなかったことである。」ということで、裁かれることのないように。

 主の再臨と最後の審判。そこにだけ目を向けると、恐ろしいことばかりが私たちの心の中を支配してしまいがちですが、恐れの対象としてこの話しを聴くのではなく、隣人愛と弱い立場にある人を大切に生きるように、そして喜びと希望のうちに生きることが出来るように、あなたがたも心をもう一度見つめ直しなさい、そういう聖書のお話しとして聞くことが出来る。
 待降節を間近にしています。新しい1年、貧しい人とともに歩める、私たち一人ひとりに成長することが出来るように、今日もまた主の祭壇の前で祈りたいと思います。』

2017年11月19日日曜日

年間第33主日 「貧しい人のための世界祈願日」

教皇フランシスコの意向により、年間第33主日は「貧しい人のための世界祈願日」として、ミサの中で共同祈願が捧げられました。

『ご自分を小さい者や貧しい者と等しい者とみなされたキリストに倣い、わたしたちも、貧しい人、弱い立場にある人に寄り添い、奉仕するよう求められています。
 不平等や不正義のない世界の実現に向けて、具体的なわざを通して神のいつくしみのあかし人となれるよう、祈り求めていかなければなりません。』
(「貧しい人のための世界祈願日」とは? カトリック中央協議会HPより抜粋)

この日の後藤神父様のお説教では、教皇様のメッセージを中心にお話されました。



御ミサの後、
 この日(「貧しい人のための世界祈願日」)の理解を深めようと、ホームレスへの炊き出し支援団体「みなずき会」の活動に参加している、当教会のメンバーから活動の内容、ホームレスの現状などについてお話しをしていただきました。
 
 死者の月の勉強会第2弾「小田神父様DVD視聴会」をミサ後に開催し約40~50名ほどの方が約2時間、研鑚しました。テーマは①通夜と葬儀でカトリック教会が大切にしていること。②家族葬(密葬)、直葬とは。



2017年11月12日日曜日

年間第32主日 「秋の大掃除」

典礼は、今日から「終末主日」と呼ばれる期間に入ります。


今日は「秋の大掃除」の日でした。
主日ミサの後、聖堂とカテドラルホールの大掃除が行われました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今朝、駐車場の欅(ケヤキ)を眺めていました。かなりの枯葉が落ちています。再臨の時が分からないように、枯葉がいつすべてが落ちるのかなと、今日の聖書のお話しを少し思い出しながら考えていました。
  み言葉の世界に心を向けます。ちょっと大きな行事があると、私たち、教会では誰もが係りの人と相談しながら準備に入ります。準備を考えると行事に合わせ、ていろいろなことを考えます。こうしたらいいなあと思いがあるも、なかなか思うようにならないのが現実です。そう思うと、今日のたとえ話を考えても、いつも準備に一喜一憂する私たちにとって、とても身近なたとえ話になると考えます。
 相応しい準備はこの世のことばかりではなくて、いつの日か死を迎えて旅立ちをする日の 世の終わり、そして主の再臨の時まで考えされられる、今日のたとえ話しになります。その再臨の時に、「私はあなたがたを知らない。」と、天の国の門が閉ざされて入れなくなるという悲しみを、誰もが味わいたくありません。その準備を後回しにするのではなくて、常に良い準備をしておかなければならない。そのようなたとえ話が、今日私たちに語られます。

 天国についての3つの教えのひとつが、今日の花婿を迎える婚宴にたとえられて語られます。10人の乙女たちは、ユダヤの婚礼の習慣にしたがって、それぞれ準備をしていたことでしょう。でも、それぞれの結果が大違いになってしまいました。ほんの小さな考えの違いから、時には最終的に取り返しのつかない、悲劇的な結果があるということだと思います。愚かな乙女たちのような状況では、誰もがもうだめだと、そんなふうに考えて寝込んでしまうのではないでしょうか。取り返しのつかない結果を受け入れなければならないと考えるならば、悲しくもあり、また恐ろしくもあります。チャンとしないからと人ごとのように考えてはならないと自分にも言い聞かせます。
  イエスの再臨の時を考えるならば、私たちもイエスを迎える時に必ずやってくる。良い準備というのはイエスに信頼して、心を開いて日々を過ごす予備の油の準備。夜、灯りを灯すことが出来る油の準備を意味していると思います。そういう準備をしてイエスとの再会を待たなければならないのが私たちの現実。良い準備も出来ず、良い準備もしないで、そのとき委せではきっと誰もが後悔することになるのではないでしょうか。良く考え良い準備をし続けることを大切にしたいと思います。たとえその結果、が失敗に終わったとしても、自分なりに精一杯準備をした。その結果としたら、後悔は少ないのではないのでしょうか。良い準備もしないで、そのとき委せで悲惨な結果を受けたとすれば、誰もがああすれば良かった、こうすれば良かったと、後悔が先になるような気がします。
  良い準備。良いと言うことはまさに良いことである、そういう意味です。良い準備はたっぷり十分に時間をかけて、そのために準備をする、考えるということだと思います。良い準備をしてイエスに出会うことになる。良い準備が出来てこそ、またイエスに出会うことが出来る。でも私たちは、時に良い準備をしたとしても、したつもりでも思いがけないことに出会うことが良くあります。この世の中で、出来事はそういうことの連続かもしれません。でも、イエスに信頼して、良い準備をしているならば、神はけっして私たちを悲しませることはないでしょう。たとえ、良い準備の結果が自分の思い通りの結果でないにしても、私たち一人ひとりを愛してくださる。慈しんでくださる。私たちを導いてくださる神は、私たちを前を向いて歩けるように力を与えてくれるはずです。

 聖書ではユダヤの古い時代の状況を取り入れて、今日のたとえ話しが語られています。ユダヤの習慣ではいつも花婿を迎えるために、婚宴の準備をして迎えたようです。今日のお話しの中で、花婿の遅れたことへの非難はひとつも語られていません。花婿が遅れていなければ、こんなことにはならなかったと思っている人もいるのではないでしょうか。そのことについては触れられていません。
  聖書ではしばしばキリストが花婿として表現されます。そして、信徒の共同体である教会が、花嫁としてその関係を表します。花婿を迎える乙女たちとは、キリストを信じ、キリストを待つ私たち信者、共同体をも表しています。
 そして、聖書でいう賢い人、愚かな人というのはどういうことか少し考えます。賢い人…旧約聖書では神の教えや掟を認め、生涯忠実にそれに生きる人のことを賢い人というようです。律法学者やファリサイ派の人たちのことを思いおこすかもしれません。福音でも、神のみ言葉を聴きこれを実行する人。先週の律法学者にイエスが言われましたけれども、言うだけで実行しない人のように、口先だけで終わる人ではないことははっきりしていると。愛の掟の実践者を示してこそ、賢い人と福音では言われている。教えを良く理解して、それを生きる人が賢い人。教えは知っているけれど、それに反する行いをしたり、それを無視したり実行しない人は愚かな人になるようです。私たちはどうでしょうか。公教要理を学び、聖書の勉強をし、そして説教を聞きながら聖書の世界に触れていますが、私たちは理解したこと、学んだこと、それを実践出来ているでしょうか。私たちも愚かな五人の一人になっていることのほうが多いかもしれません。

 今日のお話しの背景には、弟子たちや群衆に話しているたとえ話しですが、先週のみ言葉で話されていたように、対立して襲いかかる律法学者やファリサイ派の人たちへの容赦ない痛烈な言葉として、また語られていると私は考えます。弟子たちに話していますが イエス自らが日々、今体験している律法学者たちの攻めに対して、何が大切かということを弟子たち、そして群衆に教え導いている、このたとえ話しです。良い準備をしなさい。目覚めていなさい。
 イエスを信じ  イエスとの出会いを待つ私たちです。でも、その時になって、知らないと言われることがないように、目を覚ましていなさいと諭しています。
  私たちの心、私たちの祈りは、ただみ言葉を大切にするということだけでなくて、そのみ言葉を生きる者となることが出来るように、今日も私たちは心に留めながら、このミサに与りたいと思います。』

2017年11月5日日曜日

年間第31主日

イエスは、名誉や権威を守ることに腐心する偽善的な行いや高慢な態度を厳しく戒め、仕える者になるように教えます。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『「諸聖人」そして「死者の日」から11月が始まりました。皆さんはこのミサに入る前に回心の祈りを唱えましたが、この一週間を振り返りながら、皆さんはどんな回心の祈り、心を改める祈りをされたでしょうか?私は、そのようなことを今朝少し思い巡らしてみました。先週の日曜日の聖書のことばは、第一の掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい」まずそれが私たち信仰を生きるものにとって何よりも大切なことである。それに加えて、隣人を愛するというお話でした。私たちの信仰生活を振り返った時に、この一週間のうちにそれが活かされていたでしょうか?そんなことを考えると、私たちはたくさんの悔い改めの出来事を日々の生活の中で思い起こします。こうした思いを神様に清めていただいて今日のミサを捧げることはとても大切なことです。

今日の福音は、イエスと律法学者たちとの論争に続く場面が語られています。
律法学者やファリサイ派の人たちは、自分たちの名誉や権威を守ることを目的として「モーセの座」に立って教えています。そのような彼らの態度は、イエスの目には「偽善者」として映ります。今日読まれた聖書に続く箇所には「偽善者よ、あなたがたはわざわいである」というイエスのことばが続きます。
「モーセの座にすわっている」という言葉は、律法学者とファリサイ派の人々が教義を説き、律法を解釈し、執行する立場に置かれていたことを意味しています。律法学者とはモーセの律法を研究する法律家であり、ファリサイ派は宗教の教師でした。彼らは教義を教える時や聖なる時間を過ごす際には、特別な装束を身に着けていたようです。その一つには、聖句箱とよばれる聖書の中でも大切な言葉が書かれた経札が入れられた小箱を額に着けていました。それは、主と一つであるという姿勢や、心が常に神の律法に向けられていることを表すためのものでした。これらを身に着けて「モーセの座」に立って教えている時には批判を受けることはありませんでした。しかし、イエスは彼らに向って、本当に神に心を向けているのか?と厳しく咎めたのです。経札を偽善的に使用したり、注目されるために箱を大きくしたりと、そのような行いを決して見倣ってはならないと弟子たちや群衆に話しました。見かけは熱心に祈っていても、神様への畏敬や感謝の心がこもっていないなら何もしないのと同じことであると、彼らの行いの伴わない高慢な態度を批判しました。私たち司祭もイエスが批判した彼らと同じような仕事をしています。知らず知らずのうちに高慢な態度を行使しないとも限りませんので、皆さんのお祈りや支えもお願いしたいと思います。

人間の集まる世界には必ず、権威が現れ、指導者も必要になってくるようです。教会にとどまらず、学校にも、職場にも、また家庭にあっても父親や母親の権威と指導が子どもを育てる上では大切なことになります。
自分の思い通りに人を動かすことは精神的な快感ももたらします。権威を持つときには注意が必要です。
神に向う道であればなおのこと、傲慢な人ではなく謙虚な心を持って歩むことが求められるのです。
奉仕をするにしても指導をするにしても、個人的な自分の名誉のために行うことがないようにと、イエスは弟子たちをそして群衆を諭されています。そのうえで教師は一人、先生は一人、キリストの心を心として生きることこそ、私たちキリスト者の大切な心であると教えます。

私たち一人一人に与えられている神からの恵み、力、能力、そうしたものを人々への奉仕のために謙虚に用いることが出来るように、神への栄光に役立つものとなるように、今日改めて、私たち一人一人の思い・行動が、神のみ心に沿っているのかどうかを考えながら、今日のミサで祝福を祈りたいと思います。』

2017年10月29日日曜日

年間第30主日「神の愛、人への愛」

今日の福音では、イエスがファリサイ派の人々へ、神の愛、人への愛を教える場面が語られました。

今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『「ロザリオの月」と呼ばれる10月も最後の日曜日を迎えています。神のいつくしみの手の中でこの大自然の景色も秋の色に衣替えをしている真っ最中だと思います。厳しくなる寒さには身体がまだ慣れずに、外へ出るときは着るものにも気を遣っています。
毎朝、目覚めた時に眺めている教会の屋根の上には、この頃は毎日のように枯れ葉が固まって、風に飛ばされないようにしがみついているように見える場所もありますが、皆さんの住まいの周辺は、どんな秋に包まれているでしょうか?

さて、今週の福音は、先週に引き続く箇所が朗読されましたが、皆さんは覚えていますか?「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というお話がありました。イエスの回答でサドカイ派の人々が納税問題の質問で失敗したかのようなお話になっています。今度はファリサイ派の人々も一緒に集まって、またイエスに質問するという、そのような内容の福音でした。
今日の福音の中では、聖書で最も大切な掟は何なのか?という質問がされています。「主を愛しなさい」という愛の掟。私たちはどのように聞いたでしょうか?まさに、そうでなければならないと心に留めたことと思いますが、先週からイエスに対立するグループの名前が次から次に出てきています。思い起こしてみますと、”納税問題””復活について””掟について”と聖書は日曜日ごとに語ってきますけれど、そのような質問をする人々は、ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派、律法学者たち、と様々なグループが登場してきます。そもそも同じユダヤの信仰を持つグループではありますけれど、相容れない主張を持ってるグループのようです。しかし、それぞれ主張を異にしていても、イエスを罠にかけ、陥れるためならば、自分たちの派閥を超えて協力をするというのは、つい先日行われた総選挙の政治の世界と同じようなことが、2000年前の宗教の世界でも行われていたように私は考えてしまいます。
「愛の掟」に関する質問に対してイエスは、第一の掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と答えました。これはユダヤ教の熱心な信仰を生きている人々にとっては、誰もがしっかりと心に留めている聖書のことば、神の教えでもありました。ですから反論の余地のない答えをイエスは話されたということで、誰もがそれは何よりも大切なことと思っていることを聖書からしっかりと根拠を示して語られています。
その答えは、旧約聖書の申命記の中に書かれてあることでした。ユダヤ人なら誰でも知っていた、ましてやファリサイ派の人々ならばなおのこと、細かな掟の管理をしっかりと指導する人々ですから、当然彼らは十分その答えを心に留めていました。ですから、イエスの答えは完璧であり、反論の余地もなかった。当時言われていることは、ユダヤの人々はいつもこの神の言葉を心に留めて、祈りの中に繰り返していたそうです。朝夕2回、信仰告白とともに必ず唱えていた神の言葉でもあったそうです。この神の言葉は、ユダヤ人にとって先祖の民の救いの体験として、エジプトから解放され導かれたことを示す神の言葉でもありました。神はイスラエルの民と約束したことをいつも守り導く、そのような中で神の恵みが自分たちの元にあった。自分たちはその神を大切にしなければならない。神から言われるから守るのではなくて、先祖が神から救っていただいて今自分たちは神の恵みのうちに生きているのだ。今生きているのもその恵みが及んでいるからだ。だから神を愛することは当然です。神の教えは守らなければならない。このような信仰を生きていたのがイスラエルの民、ユダヤの民であったということです。生かされ、導かれているという神への感謝そのものは、愛することという形で彼らの生活があったということだと思います。
「神を愛しなさい。それが第一の掟である」付け加えるならば「隣人をも愛しなさい」それはイエスが、弟子たちをとおして示されるそういう愛でもあり、隣人愛でもあったと思います。神への愛と隣人への愛は別々の掟として捉えられていたと言われますが、イエス・キリストはそれを一つの掟として取り扱って、弟子たちとともに歩まれた方です。ですからイエスは最終的にはこのような言葉で弟子たちに愛について教えています。「私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」自分を愛するように隣人を愛するのも大事なことだけれども、自分を中心として愛するよりも、私が愛したように、私が模範として示したように、あなた方も愛し合いなさい。これが最終的なイエスからのメッセージになっていました。イエス自らが示した愛を見つめること、それが私たちの愛の掟ではないでしょうか。

イエスを見つめ、イエスに触れて過ごした弟子たちにとって、自分の上に注がれている神の愛の自覚、イエスの愛の実感こそ自分たちの愛の実践を担う力となっていたはずです。ですから、私たちも神から愛されているという実感を大切にしなければならないと思います。神から愛されている実感がなければ、自分だけの愛、形だけの愛に留まってしまうことになると思います。自分が愛された、救われた、力をもらった、そのような実感があって、私たちは周りの人にも隣人にもその愛を活かすことが出来るような気がします。
愛は大切であると信じる私たちにとって、私が示す愛、自分が示す愛は、本当に友人や隣人のためになっているのかどうか、少し考えてみなけらばならない時があるようです。時々やり過ぎてしまう、いき過ぎてしまう、愛を押し付けてしまうことも有り得るような気がします。自分はこうした、こうしてあげた、こうすべきだと思ってやっていることが、もしかすると余計なお世話になってしまうこともないわけではない、と思います。ですから、愛は素晴らしいけれども、本当に隣人に受け留めていただき感謝されるためには、自分だけの思いで自分の愛を生きるということには、少し慎重になることも必要かもしれません。時々私たちの人間関係の中で、「親切にして下さるけれどもちょっと負担になる」という人の声も聞くことがあります。大事にされるのはうれしいこと、とても素晴らしいし有り難いことだけれど、ちょっと放っておいて欲しい、そっとしておいて欲しい、という心境のときも人それぞれにあります。よくよく考えながら愛を実践するということはとても大切なことのような気がします。

今私たちが持っている愛の原動力はどこから来ているのでしょうか?皆さんの愛はどこから来ているでしょうか?そのようなことも考えながら、今日私たちが聞いたみことばを黙想しながら、「私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」というイエスのことばをよく心に留めて、また新しい出発にしたいと思います。』

2017年10月22日日曜日

年間第29主日 「ブラジル・マリンガ教区ご一行が来教」

今朝、ブラジル・マリンガ教区のアヌアル・バチスチ大司教をはじめ、二人の日系人神父様、十数名の信徒の皆様ご一行が教会を訪問され、一緒に主日ミサを捧げました。

マリンガ教区と札幌教区は、2001年に帰天された田中亮 師はじめ数名の教区司祭が宣教師として布教されるなど、深いつながりがあります。
今回の来札は、田中師のご親族との対面、当地で田中師らが尽力したザビエル学園建設に対する感謝の意を伝えるための表敬訪問とのことです。

勝谷司教様、後藤神父様、そして、バチスチ大司教、二人の日系人神父様との共同司式により主日ミサが捧げられました。




この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『今日の福音書を理解するためには、その前提となる背景を少し説明する必要があります。 何度も聴いて承知の方もあられると思いますが、簡単に解説します。 
 イエス様のところに行って、税金を納めるべきか、あるいは納めてはならないのかという 論争。どこからきているかというと、ユダヤ人にとって唯一の王は、「神のみ」という考え方をしていました。ですから、神がこの世を治めておられる。税金を納めるのも神のもの。ですから彼らは重い税であっても、神殿に対して税を納めることはいといませんでした。しかし、ローマ皇帝に税を納めるということは、当時のローマ皇帝は神格化されていました。そして、その銀貨に刻まれた肖像は神として(のもの。)ですから、皇帝に税金を納めるということは偶像崇拝にも等しいことである。律法で神学的な対策をしていたのは、ファリサイ派の人々です。一方、ヘロデ派の人々は、ローマによって打ち立てられた「かいらい政権」を指示する 人たちです。当然彼らはローマ帝国に税金を納めることを奨励していました。ですから、本来はヘロデ派の人たちとファリサイ派の人たちは、まったくあわない人たちなのです。ところが、イエス様を陥れようとする策略のために、このときは協力し合っていたのです。そして、慇懃(いんぎん)無礼なイエス様を讃えるようなことを言って、これは中途半端な答えは赦さないぞと、「税金を納めるべきか、納めるべきではないか」と問い詰めるのです。
  どちらの答えをしてもイエス様は窮地に追い込められるという巧妙な質問です。税金を納めよと言えば、これは神に反する、律法に触れることとしてファリサイ派の人たちから攻撃されます。納めなくても良いと言えば、ヘロデ派の人たちから、ローマに対する反逆者として、また糾弾されるわけです。どちらの答えをとったとしてもこれはまずい答えになるわけです。
 これに対してイエス様の答えは、デナリオン銀貨に刻まれている肖像を見せながら、「この肖像と銘は誰の者か。」と聞くわけです。「皇帝のものです」。実はファリサイ派の人たちは、神学的には納めてはならないと主張しながらも、実際は納めざるを得なかったわけです。皇帝の銀貨も流通し、本来は神殿の中では使われてはならないはずの銀貨も流通していたところは、これは彼らが建前を主張しても、現実にはそうではないということを物語っています。彼らの中に既に多くの矛盾を抱えていたんですが、イエス様は彼らの矛盾を良く承知した上で、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」。
  これはどういう意味か、短い言葉でいろいろ解釈されています。一般的に多く解釈されているのは、いわゆる宗教と政治は分離して考えるべきだという「政教分離」の考え方。イエス様こういうふうに解釈していたという方が多かった。しかし、実際この時代は「政教分離」という概念さえもありません。この地上におけるすべてのことは、神と政治が結びついたものです。分けることは出来ないと言う考え方です。たしかにイエス様は、政治的に関わった発言はなさっていませんが、結果的に十字架にかけられた罪状は、政治犯としての罪状だったのです。この政教分離という考え方は、実は近世になってからの考え方で、特に教会というものが非常に世俗的な権力を強く持つようになって、その反省から宗教と政治は分離されるべきだと考えられるようになりました。しかし、ここで大きな誤解が起こりました。つまり、宗教的に生きる者、信仰を持って生きる者はいっさい政治にかかわってはならないということでした。しかし、本来の「政教分離」という意味は、特に第二バチカン公会議以降のいろいろな文書の中で、むしろ政治に関わることは信徒の義務だと、現代世界憲章に宣言されています。
 政教分離は何を意味するかというと、ある特定の宗教団体が権力と結びついて、国家的な権力を行使するものになってはならない。あるいは、特定の権力から利益を受けて、そういう権益を得、利益を得るようなものになってははなならいということです。そしてむしろ、信徒はその信仰の信念にしたがってこの世の政治に関与することは、宗教の義務であると唄われています。そして、教会に対しては政治に対して福音的な観点から、それに反するものに対しては、むしろそれに対してはっきりとした意見を述べる義務があると言われています。そう言った意味で、私たちが「政教分離」といった意味を考えたときに、そこをきちんと分けて考えなければなりません。

  話しが少し横道にそれましたが、奇しくも今日は総選挙の日です。わたしたちが政治的に関わるチャンスの時、特に大切な日です。天候がどうなるか分かりませんが、それぞれの信念で国民としての権利を行使する、放棄することのないように。選挙に行って欲しい。
 さてまた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」にもどりますが、皇帝のものとは世俗の象徴ですね。そして実際ファリサイ派の人は、建前上は納めないと言うけれど、権威の中で妥協しながら生きている、生きざるを得ないのがこの世の現実なのです。つまり、私たちもこの世俗の中にあって、たしかにお金なしでは生きて生けませんし、様々な世俗的なものに囲まれて、それに頼っていかなければならないのが現状です。それを排除して生きるとすれば観想修道会に行かなければならないと思うのです。それは世俗の者は、世俗の中で生きなければならない現実を認めながらも、「神のものは神に」。いったいこれは何を意味しているのか。世俗の中に生きながらも、譲ってはならない大切な場所。 
 神のために生きることは、それはとりもなおさず愛に生きるということですが、わたしたちが本当にお金や権力、地位など世俗のものに惑わされて、神のものをないがしろにすることにないように。むしろ場合によっては神のものを大切にするために、この世俗のものを捨てるような、あるいは優先させる世俗のものよりも神のものを優先させるという、それが求められている。
 今、私たち一人ひとりにとって、このここで問われている「神のものは神に返せ」。いったい、これは何を言われているのか、本当に神のものを大切にする生き方を選ぼうとしているのか。私たち一人ひとりに具体的な生き方。世俗の中で生きている私たちに問われている、大きな問いだということが言えると思います。』


御ミサのあとカテドラルホールで、先日、黙想会講師で来教された小田武彦神父様のDVD「キリスト教の死生観と病者の塗油の秘跡」を視聴し、死者の月を控えての勉強会が行われました。


2017年10月15日日曜日

年間第28主日 「婚宴のたとえ」

神は全ての人を招いておられますが、その招きに応えられるかどうかは私たち次第です。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先週のミサ後に朗読の研修会を行いました。私が想像していたよりも大勢の方が参加して学びの時間を持ちました。そのせいではないと思いますが、今日の朗読を聞いていて、とても落ち着いて聞きやすい朗読でした。聞いている皆さんも心の中にまで届くようなみ言葉に耳を傾けられたのではないでしょうか。

先週は久し振りに、教区の神学生養成担当者として神学校の会議で東京に出かけました。神学校までは吉祥寺駅から歩いて40分ほどの距離で昔はよく歩いて行ったものですが、今は無理なので駅からバスで向かいました。そのバスの中でとてもよい”招き”の体験をしましたのでお話します。私はバスに乗って吊革に捕まって立っていたのですが、目の前に制服を着た小学生の女の子が読書をしながら座っていました。ふと目を上げたその女の子は立っている私に気付くとすっと立ち上がって「お座りになりませんか?」と声をかけてくれたのです。人の善意に出会え、私にとっては爽やかな気持ちのよい一日になりました。
今日の聖書のお話ではないですけれど、神様から贈り物をいただいたようなそんな気分の一日となりました。ふと、気付いたのですが、もしかしたら私にとって初めて席を譲られる体験だったのではないのかなと思いました(会衆笑い)。最近、私は高齢者のお話をよくしますが、私自身が高齢者になった証のような体験でもあり、このような親切に出会えそれを素直に受け取れたということは、年を重ねることもいいことなのかなとも思えるようなことでした。

さて、今日はぶどう園を舞台にした話の続きでした。3週間続いたぶどう園の話は今日が最後になります。最初は「二人の息子」の話でした。そして先週は「悪い農夫たち」です。そして今日は三部作の最後のような例え話で「婚宴」のお話でした。
これまで、律法学者や祭司長、長老たちにイエスが話しているように「ことばでは賞賛し、口先では立派なことを言っているが、彼らは神への信頼に欠け、その教えを受け入れようとしない人たちである」という、イエスを拒絶し排除しようとし、自分のことだけを考えているという彼らへの批判があり、厳しい対立が見られるなか、選ばれた神の民の特権が取り上げられ、「神の国は異邦人や罪人を含む新しい民に与えられる」というメッセージがあります。
このたとえ話をとおして、神の民であるユダヤ人の罪と罰が語られます。「天の国」は「婚宴の場」と例えられ、王様は神、王子はイエス・キリストを表す形で、このたとえ話をみることができます。披露宴は天の国であり、神の国です。その神の国に招待されているのが神の民であるユダヤ人でした。
神はそのユダヤ人たちを婚宴に招きます。「食事の用意が出来ました」と、自分の持っている最も善いものを準備して王は招きます。神がそういう食事を用意してくださったのは「主の食卓」、すなわちミサとも重ね合わせることができます。私たちの信仰と救いのうえでミサは大切なものであります。でも私たちはいつもこの救いの場となるミサを最も大切にできているでしょうか?そのような問い掛けも聞こえてくるような気がします。ほとんどの人は主日のミサを大切にして教会に足を運び、ご聖体をいただいて新しい一週間に向っていきます。でも時々そのミサに与れない与らない人たちもいるような気がします。それは自分を優先する場合にそうなってしまうことがあるでしょう。天のことよりも地上のこと、私たちが生きている世界のことを優先せざるを得ない、そのような事情がある人もたくさんいるというのは私たちの現実だと思います。しかし、時にそのことを承知のうえで怠けて、神の招きに応えないという心で足を運ばないこともあるかもしれません。もしそういうことであれば、聖書にあるように、やがて裁きとなって下るということが語られます。
聖書のこの婚宴の話のなかでは、神の民であるはずのユダヤ人が招かれたけれど拒絶したため、神の招きは新しい民へと変わっていきそうです。そして新しい民というのは、信仰を持つ者だけではない、信仰を持っていない人にも招きがある、それは異邦人であるかもしれません。さらに良い人・悪い人に関係なく招かれるというのも聖書で語られます。神の招きは全ての人へ普遍的に拡がっているということが語られています。資格のある・なし、私たちは時々、洗礼を受けていますか?ということを強調して話してしまいますが、洗礼を受けていても受けていなくても神の招きはいつも一人一人に注がれているということを大切にしなければならないと思います。
私たち一人一人は本当にその招きに応えようとしているでしょうか?この地上の生活が優先してしまう時に、自分の思い、自分を捨てることの難しさを誰もが感じていると思います。神様に応えたいけれども残念ながら今日はその時は応えられない、そのような事情も持ち合わせているということもよくあるのではないでしょうか。そうは言っても、時にどんな事情があるにせよ、家族の一人がもし怪我をしたり亡くなったりしたら、そっちに向うことが出来ているはずです。そのような選択は誰でもがするはずなのに残念ながら、教会のミサに対しては、そのような決断が出来ないというのが現実でしょう。神の教えや神からの呼びかけよりも、もしかすると、人から憎まれたり悪口を言われたりすることの方を恐れて、そのような選択をすることもあるかのような気がします。
しかし、自分の立場を優先ばかりしていては、神の招待さえも拒否し続けることになってしまいそうです。「いのちに至る道は狭い」と聖書言われていますが、捨てるべきものを捨てなければ、神の国に入ることは難しいのだということを心に留めておきたいと思います。

さて聖書の話では婚宴が始まって王が入ってきます。するとその王は一人の人に目を向けて「礼服を着けないでここに入ってきたのか?」と言いました。この一言を私たちはどう理解したでしょうか?きっと皆さんはこの言葉はどういう意味なんだろう?私たちはどんな礼服を着けて御ミサに来なければならないか、というところに繋がっていくのではないでしょうか。
私たちは、ふさわしい礼服を着けて、いま、主の食卓に与ろうとしているのでしょうか?聖書の中に「イエス・キリストを着なさい」ということばがあり、洗礼の時には「あなたは新しい人となり、キリストを着るものとなりました」ということばが伝わっています。洗礼の時は「白衣を受ける」ということばが使われていますが、私たちにとって礼服とはどんなものでしょうか?少し思い巡らしてみてください。
少し安心してもらうために、聖書の旧約時代にあった話をします。旧約時代に遡るとこんな習慣があったそうです。祝宴があるときは、王宮で王から与えられる歓迎の着物があったそうです。ですから今日の福音に照らし合わせてそのことを考えてみますと、突然道端で招きを受けたのですから、婚宴にふさわしい服など持っている人はほとんどおらず、礼服を着ることなど当然難しかったはずです。でも昔の習慣では、招かれた人は王宮に入っていく時に衣服が与えられたので、その衣服を着て入ることができるとすれば、それほど心配せずに突然の招待も受けられたはずです。ところが一人だけ礼服を身に着けていない人がいたというのが今日の聖書のお話です。少し理解できたと思います。
それでは、今の私たちにとって考えなければならない礼服とは?
パウロの表現によりますと、「キリストを着ること」ということで礼服について話をされていることがあります。それは「新しい人を着る」ということでもあるというのです。
「礼服」とは、「キリストを信じることであり、神を信頼し信じる心を持つこと」それが神から与えられた礼服を着るということです。これは、信じることなく、救いに与ろうとするものではない、ということを言っていると思います。神を信じることから救いが始まるということです。
ですから、ふさわしい礼服とは、真実の信仰を求め、それを生きようとする心構えといえると思います。神の恵みの席に今連なっている私たちですが、それが形だけではなく、神との真実な交わり出会いとあるよう願い祈ることが求められています。
地上の現実にすべてを奪われている人の心には、神の呼びかけやイエスの呼びかけも響かないと思います。神が今、私たちを招いて下さる。その答えは、私たちの信仰の問題になってくるということ。今日の婚宴のたとえをとおして、私たちが着ける礼服はどうなっているのか、ということをメッセージとして受け止めたいと思います。
そして、私たちが本当に神の国に繋がって、私たちの道が歩めるように今日もまた主の祭壇の前で一致して祈りたいと思います。』

2017年10月9日月曜日

年間第27主日 「ぶどう園と農夫」のたとえ

香部屋の蔦も色付きはじめ、秋を感じるようになりました。


この日の「ぶどう園と農夫」のたとえは、主人からゆだねられ管理をまかされたものを、感謝することなく当然のように感じ、自分の所有物だと思い込む。現代に生きる私たちにもつながる教えです。
やがては、神のみことばを聞いてもそれを行わない者からは、神の国は取り上げられてしまいます。

この日の後藤神父様のお説教は、ブログの最後に掲載しています。


主日ミサの後、聖堂で典礼部主催による「聖書朗読のための勉強会」が行われました。


参加者からは、朗読に際しての細かい所作などについて、たくさんの質問がありました。
奉仕に当たっての心配事が解消され、朗読に専念できる助けになったのではないでしょうか。
ただ読むのではなく「神のみことばを宣べ伝える」ために心がけなければならないことを学びました。それはそれでとても大切なことですが、身構える余り緊張しすぎないようにも気を付けましょう。

後藤神父様のお説教

『今日、皆さんは福音のみ言葉をどのように聴いていたでしょうか。そして、どのように受けとめているでしょうか。もう一つの話しを聞きなさいと呼びかけて今日の福音は始まっています。すでに皆さんはもう一つの話しを聞いたということを前提に、今日の話しは語られています。もう一つの話しは先週聞いているお話になります。先週のお話しを思いおこさなければ、今日のお話しは少し難しいかもしれません。
 今日のみ言葉では、第一朗読のユダヤの預言を彷彿とさせるものがあります。ユダヤの預言もぶどう園のお話しです。もう三周間も日曜日の話しは、ぶどう園の話しが舞台になっています。一生懸命働いても地主、主人だけが良いおもいをしていることに腹をたてている小作人たち。主人の財産を自分たちのものにしようとした、ぶどう園で働く悪い小作人の話しが今日の舞台で語られてています。先週のたとえと違って、今日のお話しはどの福音にも語られているものです。マルコ福音書でも、ルカ福音書でも同じような話しが語られているのです。でも、まったく同じではありません。内容のほとんど同じですが、細かい点でちがった物語になっています。ですから、比較すると興味深い点にぶちあたります。いずれも先週と同じように、イエスが祭司長や民の長老たちに向けて呼びかけ、もう一つの話しを聞きなさいと始まるわけです。もう一つの話しを皆さんは思い出していると思います。二人の息子のお話がありました。仕事を頼まれたお兄さんは「いや。」と答えたのです。同じように仕事を頼まれた弟は「はい。」と答えました。ところが、それぞれ後の行動は返事とは違った行動になっています。どちらが正しいと思うのかが先週のお話しでした。仕事を頼まれたとき「はい。」と答えたが、それをあやふやにして果たさなかった人。「いや。」と答えたが、よくよく考えると申し訳ないと考え、その仕事に忠実に果たそうと努力した人。これが先週の話しでした。
 今日の話しでも、ぶどう園の主人は父である神様を指しています。そして最後に送った主人の息子は、もしかするとイエスを表していると思います。私たちが聖書を通して学んでいる、理解している、父が送ったイエスが十字架に架かって亡くなったという話しに繋がってくる、このぶどう園の話しになります。ぶどうの実りを小作人に要求する権利を持っているのは主人、地主です。その当然の権利を働く人にお願いしているけれども、時代も時代、今の時代もそういう思いを持つ人はたくさんいると思いますが、時代を良く考えながらこの物語を味わう必要があります。
  今日の第一朗読のイザヤの預言は、イスラエルの不信仰を恐れるために物語っているが、話しはぶどうの収穫を拒む農夫たち、その悪意がいっそう強調されて話されています。先ほどほかの福音書でも同じ内容があると話しました。主人から派遣される僕の人数やその回数もそれぞれの福音で少し違ってきます。そういう点では比較すると面白いと思います。マタイ福音書では農夫たちの反抗の凄まじさ、悪意がはっきりと描かれました。最後に主人は自分の息子をぶどう園に送っていますが、ここでもマルコ福音書では、まだ一人の息子を持っていた。彼の最愛の息子である。こういう表現をとっています。それがイエス自身であることを強調した表現がとられた。マタイ福音書の方では表現が違います。彼は自分の子を遣わしたと、こういう表現だけです。最愛の息子を送るということ、自分の息子を遣わすということ。こういうところも違った表現があります。
  いずれにせよ、イエスはこのたとえ話しの結論を人々に質問しています。先週も弟と兄の返事に対して正しいのはどちらかと言う形で最後イエスは質問して、それぞれ考えさせる、そういう教えを展開していた。今日の話しも同じようです。結果的にあなたがたはどう考えるのかということを問いかけます。ぶどう園の主人が帰ってきたら、その農夫たちをどうするだろうか。人々がそれに答えて、その答えをイエスは認めます。答えは正しいのですが、先週と同じように口では立派な答えが出来て居るはずなのに、実行が伴わないことがある。それがきっと私たち一人ひとりが、はっきりとしっかりと考えていかなければならないテーマになっています。口では正しいことを話していても、それをしっかりと行動に移すことが出来ているかどうか、そのことも問われているのだということ。
 特に今日のお話しの背景には、当時の指導者である長老や祭司長たち。彼らは律法にも聖書にも通じていて信仰の指導者です。正しいことを人々に教え、神の教えを大切にしようと指導的な立場からいつも話されている人たちです。でも、話し方、教えは素晴らしいけれども、彼ら自身はどうであったのか。そんなことが私たちに語られます。イエスのこうしたたとえ話を当然、祭司長や長老たちは聞いています。そして、一言でも間違った言い方をしたならば、イエスを何とか窮地に立たせたいと願っているのが祭司長や長老たち。一言でさえもイエスの言葉を聞き逃すまいと構えています。イザヤの預言で言われたように、イスラエルの不信仰があったように、宗教の教えをある意味導いている祭司長や民の長老たちも、神の国は取り上げられてしまう、そういうおこない生き方をしている。
 私たちはどうですか?神の国を願い、私たちも祈りを一生懸命捧げます。私たちの信仰、祈りと行動は一つになっているでしょうか。パウロの第2朗読の言葉も、大切な言葉が私たちに告げられています。共同体の中にある私たちの目指す心が触れられます。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事に付け感謝をこめて祈りと願いを捧げ、求めているものを神にうち明けなさい。それは慈しみ深い、憐れみ深い心があるなら、心をあわせて心を一つにして祈りなさい。自分のことだけではなくて、共同体の一人ひとりを思いやって、互いにこころがけて歩みなさい。そういうことだと思います。

  私たちは今日の聖書のみ言葉から、もう一度どんなことを心に留めるべきでしょうか。イエスは最後に言われます。私から学んだこと受けたこと、私について聞いたこと見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなた方とともにおられる。み言葉である神は、耳を傾ける私たちにも祈りが実を結び、その実りを大切にしなさいということを教えます。
 今日もう一度、聖書のみ言葉を味わい、わたしたちが理解したことを、わたしたちの生活、行動の中でそれが実りを結ぶことが出来るように。そのことを願いながら、今日のミサに入りたいと思います。』